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2008年3月17日 (月)

07年4月号 「多文化共生」について考える

「多文化共生」について考える  

 滋賀県内にはブラジル人学校が少なくとも六つあります。少なくともと言うのは小規模校が自然発生的に生まれているため、私たちが把握していない学校もあるように思えるからなのですが、これらは一般の私塾と同様に何らの財政支援もないため、どこも満足な設備を持っているとは言えません。
 そんな中、あるブラジル人学校の先生が次のようなことを話されました。「学校の中では体を動かすようなスペースがないので学校外の場所でそういった活動をすることになるが、近くの公園は使ったらダメと言われる」「近くにある自動販売機で飲み物を買うのもダメと言われる」。理由は分からないけれども、近隣の人からそんなことを言われるというのです。

  「多文化共生」という言葉

 最近よく「多文化共生」という言葉を耳にするようになりました。この言葉は一九九五年の阪神淡路大震災の際の外国籍者への支援活動の中から生まれた言葉のようですが、今では役所や人権教育機関などでも使われるようになり、社会的に認知される言葉となりつつあります。 この言葉はしばしば「社会」という言葉と結びつき、「多文化共生社会を築きましょう」などと使われますが、これはどのような社会を意味するのでしょうか?
 「共生」とは単に、同じ地域に暮らすという意味ではありません。そうだとすれば、日本ではすでに多様な文化的背景を持った人たちが暮らしているわけですし、「共生社会」はすでに実現していることとなってしまいます。また、「共生」を「共に生きる」というように解釈しても、その意味は、いまひとつよく分かりません。
 そもそも「多文化共生」は造語であって辞書に載っている言葉ではありません。「多文化共生」に似た言葉で多文化主義というのはありますが、これに関しては広辞苑に次のように書かれています。「一つの国・社会に複数の民族・人種などが存在するとき、それらの異なった文化の共存を積極的に認めようとする立場」。だとすると、「多文化共生」についても、むしろ私たちの暮らしの中での関係のあり方を問う言葉だと言えそうです。
 「共生」という単語を調べてみると、実はこれは生物学で使われている言葉だということが分かります。広辞苑には「異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一所に生活している状態」とあります。その例としてよく引き合いに出されるのが、ヤドカリとイソギンチャクの関係です。また、「ヤドカリとイソギンチャク」の関係は小学四年生の教科書(東京書籍)でも題材として取り上げられているということを最近知りました。教科書では「共生」という言葉は使われていませんが、「共生」の意味について非常によく分かると思うので少し引用させていただきます。
 「ヤドカリのなかまで、さんご礁に多いソメンヤドカリは、貝がらにイソギンチャクを付けて歩き回っています。観察してみると、ソメンヤドカリは、たいてい二つから四つのベニヒモイソギンチャクを、貝がらの上に付けています。」……「イソギンチャクのしょく手は、何かがふれるとはりがとび出す仕組みになっています。そのはりで、魚やエビをしびれさせて、えさにするのです。タコや魚はこのことをよく知っていて、イソギンチャクに近づこうとはしません。それで、ヤドカリは、イソギンチャクを自分の貝がらにつけることで、敵から身を守ることができるのです。」……「ヤドカリに付いていないベニヒモイソギンチャクは、ほとんど動きません。ですから、えさになる魚やエビが近くにやってくるのを待つしかありません。しかし、ヤドカリに付いていれば、いろいろな場所に移動することができるので、その結果、えさをとる機会が増えます。また、ヤドカリに付いていると、ヤドカリの食べ残しをもらうこともできるのです。」……「ヤドカリとイソギンチャクは、このように、たがいに助け合って生きているのです。」
 つまり、様々な文化的背景を持った人たちがお互いに尊重し合い、助け合っていく、そのような関係を「多文化共生」といい、その考え方に基づいた社会が「多文化共生社会」だと言えそうです。 「日本人」「外国人」という見方  「皆が仲良く暮らせられればいいのに。」そんな簡単なことであっても、なぜか私たちには難しいことのようです。その原因となるのが「偏見」や「先入観」といったものだからです。
 例えば、ちょうど今から一年程前、長浜で幼稚園児が殺害される事件がありましたが、加害者はたまたま中国籍の人でした。その事件直後、いつものように私が息子を保育園へ迎えに行ったときのことです。同じクラスの女の子が突然、「たけしくん(私の息子の名まえ)のお母さん、外国人なん?」と尋ねてきました。こんな幼い年齢の子どもから「外国人」という言葉を聞いたのは初めてでした。【加害者は中国人】→【中国人は外国人】→【たけしくんのお母さんも外国人】という流れの話がその女の子の家であり、それを聞いていた女の子が言葉の意味もよく分からずに使ったのでしょうが、「日本人」と「外国人」という二者択一的なイメージを植えつけている大人社会が悲しく思えました。
 上の子が保育園に通っていたときも、同じようなことがありました。ある時、うちの子どもが「パパ、ぼくは外国人なん?」と突然尋ねてきたのです。
 「何で?」と尋ねると、「(実習に来ていた中学生の子が)おまえ、外国人やな」と言ってきたそうです。うちの子はそれまで「外国人」という言葉を聞いたことがなかったので「なんでぼくが外国人なん?」と聞き返したところ、「髪の毛の色が違うから外国人や」と言われたというのです。
 けれどもこういった体験は、国際結婚をした家庭ではよくあることのようです。ある家族の人からこんな話を聞いたこともあります。「公園で子どもを遊ばせていたら、その公園に来ていた別の子どもと、うちの子との間にけんかが起こった。でも、相手の子がうちの子を見た途端『なんや、外国人なんか?』と言ってけんかをやめてしまった」。
 人権学習の中では、「外人」という呼び方は差別的な意味があるから「外国人」と呼びましょう、ということが言われています。けれども、私には「外人」も「外国人」も大差がないように思えます。「外国人」という言い方であっても、当事者あるいは当事者家族は時と場合によって、自分たちだけ疎外されているように感じるものだからです。
 保育園で上の子が「外国人」と呼ばれたことがあった時には、私と妻はすぐに保育園へ行き、「今後もし同じようなことを見かけたら、『外国人ではなしに、この子の名まえは〔たけし〕くんだよ』と言ってほしい」と先生にお願いしました。うちの子どもが「自分は周りの子どもたちとは違うんだ」という疎外感を持つことのないようにというだけではなく、「日本人」と「外国人」と人を二つに分けて考えること自体が周りの子どもたちにとっても良くないと思ったためです。
 「日本人」「外国人」という見方ではなしに、一人ひとりが違った名まえや性格を持っているようにすべての人をみてほしい、そんな風に私たちは願っているのです。
 しかし、「日本人」と「外国人」という画一的な見方は教育現場でも広がっているように思います。 ある学校の先生が「うちの学校には外国人の子どもがいないから国際理解教育が難しい」と言っていたのを聞いたことがあります。
 クラスの中に外国籍の子どもがいると、その子の国のことや文化などをその子に発表してもらう授業を行ったりすることもあるようですが、こういった授業はややもすると「日本人」と「外国人」という二者択一的な見方を助長しかねません。

ちがいが尊重される社会へ  

 共生の例として先にあげたヤドカリとイソギンチャクの話を「日本人」と「外国人」とに置き換えてみて、「日本人と外国人がお互いに助け合っていきましょうね」などというと非常に理解しやすいかもしれませんが、「ヤドカリとイソギンチャク」と「日本人と外国人」の関係とは根本的に違います。
 例えば、国際結婚をして生まれた子どもは「日本人」か「外国人」かどちらでしょうか?また、両親が「外国人」であったとしても、生まれてきた子どもが日本で育ち成人になるとすれば、その子は「外国人」として生きるべきなのか、帰化をして「日本人」として生きるべきなのか?
 こうして、多くの子どもたちが自分のアイデンティティについて思い悩むこととなります。  うちの子どもは日本とブラジルとの二重国籍者です。父である私が日本人であるために日本の法律によって子どもが日本の国籍を取得し、母である私の妻がブラジル人であるためにブラジルの法律によって子どもがブラジルの国籍を取得したため、好むと好まざるに関わらず結果的に二重国籍となったのです。まさに「ヤドカリ」であると同時に「イソギンチャク」でもあるような存在です。
 そのため、例えば日本からブラジルへ行く際には、子どもは日本を出国する際には日本のパスポートを持って「日本人」として、ブラジルへ入国する際にはブラジルのパスポートを持って「ブラジル人」としてその地を踏むというおかしな現象も出てきています。
 つまり、はっきりと両者が異質なものである「ヤドカリ」「イソギンチャク」との関係と、「日本人」「外国人」との関係とは同一に語られるべきものではなく、「多文化共生社会」という考え方の中でも「日本人」と「外国人」とが対比的に捉えられるべきものではありません。 考えてみると、「多文化共生」という表現を用いる時、Aという文化とBという文化は異質なものだということが前提としてあります。けれども、私たちの文化は複雑に織り成され、同じ国や同じ民族であってもそこでの価値観は多岐に渡っています。十人十色という言葉がありますが、「あゆみちゃん」、「パウロくん」、「ただしくん」、「ローザちゃん」、それぞれが固有の名まえを持っているのと同様、私たちは六五億人六五億色です。その一人ひとりが違った個性を持っているし、それをわざわざ「Aという文化を持っている人」「Bという文化を持っている人」というように分けて考える必要もないと思うのです。
 むしろ問題なのは、今の社会が多様なちがいを受け入れているかどうかです。一方が他方に考え方を押し付けているようなことは起こっていないでしょうか? 
 「ここではこうしないとダメ」といった考えは、結局、私たちの暮らしを息苦しくさせるだけのものです。心の面でも制度の面でも、多様なちがいに対応できる社会になってほしいものです。

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