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2008年2月 7日 (木)

06年2月号 ブラジルへ渡った日本人移民(後編)

ブラジルへ渡った日本人移民(後編)

『戦前にブラジルへ渡った日本人移民』というテーマで前回(『じんけん』〇五年一二月号)、戦前の移民について述べさせていただきました。今回はその後編です。

 日本人移民の夢は、二~三年ブラジルで働き、お金をためて本国へ帰るというものでした。しかし、厳しい現実の前にその夢はかなわず、ブラジル滞在は長期化していきます。それと同時に、日本へ帰った時に子どもたちが恥をかかないようにとの想いから日本人学校が次々と建設されていきました。滞在が長期化しつつも、日本人移民の心ははるか彼方の母国へと向けられていたのです。

ところが、日本人移民がピークを迎えていた一九三〇年代前半から、ブラジルではナショナリズムが激しく高まっていきます。

ブラジルでのナショナリズムの高まり

 一八九一年から一九三〇年までの四〇年間、ブラジルでは共和制が採られ、大統領が選挙によって選出されていました。そしてこの時期に、コーヒー産業が繁栄を極め、移民の受け入れが積極的に行われるようになりました。

しかし、一九三〇年の大統領選挙に敗れたゼツリオ・バルガスが軍部の力を借りて革命を勃発、臨時大統領の座を奪い取り、大統領の権限の大きいファッショ的な憲法を一九三四年に公布します。さらに、憲法に定めた大統領任期の四年が満了する直前の一九三七年、バルガスはクーデターを起こして上下院や地方の議会を解散、同時に独裁的な新憲法を公布してナショナリズムを強硬に進めていきます。

 また、戦乱に乗じて米国への輸出が伸び、同国との協調関係が強固なものとなると、真珠湾攻撃翌月の一九四二年一月、ブラジルは日本との国交を断絶してしまい、日系社会に衝撃が走ります。

 

ナショナリズムの中での日本人移民

 ブラジルが同化政策を強引に推し進めている頃、日本は軍国主義をひた走っていました。日本はブラジルでも教育勅語に則った皇国教育を行うよう命じ、日本の発展に貢献することを望んだ日系社会の大半もこれに盲目的に従いました。それはまた、遠く離れた地であっても日本人であり続けようとする移民の心の表れでもあったのです。

しかし、国家意識の統一を目指すバルガスは一九三八年に外国語学校をすべて閉鎖、一九四一年にはすべての外国語新聞の発行を禁止。一九四二年には日本人に対して、公の場における日本語使用や三人以上の集会を禁止。友人を訪ねる際にも許可証が必要とされ、資産も凍結されてしまいます。日系社会の主要な情報源は一九三五年から南米向けに行われていたラジオ放送だけでしたが、一九四二年にはラジオを聞くことも禁止、日本語の書籍や雑誌も押収、違反者は逮捕されるようになりました。

日本人に対する強制立ち退き命令や略奪など不条理なことが次々と起こる中、日本人は息を潜めて家の中に閉じこもり、日本が勝利して終戦を迎えることをひたすら待ち続けました。

そんな中、日本人移民に希望を与えていたのは海南島再移住論でした。「大東亜共栄圏の新秩序の建設と言う如き曠古の大事業に吾が祖国の行く可き道は定まった。……只吾々は日の丸の旗の下で充実せる精神と生活とを子孫のために残したいと言ふ切望を持つものであります。……吾々の東亜圏内再移住を忌避する理由は毫もないのであります。」(「聖州新報」一九四一年五月三一日)などという主張に、日系社会は海南島や満州などでの新しい暮らしの夢を描いていました。ラジオから流れる日本兵進軍の情報、真珠湾攻撃の戦果などに、日系社会が沸きに沸いたのは言うまでもありません。それは取りも直さず、自分たちが再移住の夢に近づくことでもあったのです。

また、戦況をただ静観しているだけではなく、一九四二年には日系社会の中で「天誅組」が組織され、「いやしくも敵性国家を利するが如き生産に従事するを許さず」として、絹や薄荷を生産する日本人に対し、焼き討ちなどの迫害をするようになりました。絹や薄荷は敵国によってパラシュートや爆薬に利用されるとの考えからでした。

混乱を極める戦後の日系社会

 一九四五年八月一五日、ポツダム宣言を受諾した日本は無条件降伏をします。しかしブラジル日系社会の間では、無条件降伏のニュースはアメリカの陰謀だ、というデマが当初から流れていました。

移民たちは日本へ帰ることだけを夢見ていました。故郷が破壊され、アメリカの占領下に置かれることを認めることは、今までの自分たちの苦労をすべて無駄にすることとなります。日本が負けるはずがない、祖国が勝利するに違いないという思いはやがて、日本が勝利したという確信へと変わっていきました。日本が勝利した今、天皇の船が自分たちを迎えに来て再移住の夢を叶えてくれる、ほとんどの人たちはそう信じていたのです。

ここに日本の勝利を唱える「勝ち組」と、日本の敗戦を客観的事実として認識する「認識派(負け組)」とが生まれ、日系社会は大きく二つに分裂することとなります。約九割を占めていたと言われる勝ち組は臣道連盟を結成し、一九四六年に入ってからは認識派に対する無差別テロを開始。過激化する勝ち組は認識派を「国賊」として次々と暗殺、家や店なども武装襲撃するようになります。四月一日のテロ事件では六〇〇人にもの勝ち組メンバーが一斉に検挙されますが、テロ事件はとどまるところを知らず暗殺はその後も続きました。次々と起こる日系社会でのテロ事件に、ブラジル当局も本格的な摘発に乗り出します。

勝ち組幹部の大量検挙や、新聞発行の復活などにより正確な情報が徐々に提供されていくと、一九五〇年頃にはテロ行為はようやく終息に向かっていきます。

しかし、移民たちの帰国願望が消えたわけではありませんでした。多くの人たちは天皇がいつか自分たちを迎えに来てくれると信じ、ある者たちは国連軍として朝鮮戦争に義勇軍として参加することを要望し、別の者たちは共産党として非合法活動をしているから日本へ国外追放するようブラジル当局に求めました。それらの試みが徒労に終わると、移民たちは失意のうちにも現実を受け入れざるを得なくなり、ブラジルでの永住傾向が徐々に強まっていきます。

戦後のブラジル国内事情

連合国との結びつきを深めるブラジルはドイツ、イタリア、日本に宣戦布告。しかしそのことはまた、関係諸国からブラジル議会の再開を求められる結果をも生み出しました。議会再開に対する内外からの圧力が高まる中、一九四五年にバルガスは辞任、一五年に渡った独裁政権が終焉し、大統領選が再開されます。

 その後一九五五年にはクビチェックが大統領に当選し、ブラジル中央高原の密林を切り開いての首都ブラジリア遷都、何千キロにも及ぶ全国の幹線道路建設、積極的な外資導入・外国企業の誘致による基幹工業の確立を目指しました。けれども、性急な政策は貧富の差を広げ、激しいインフレを引き起こします。

不安定な国内事情の中、一九六四年には軍部が革命を引き起こしてカステーロ政権を樹立。革命反対派の追放、すべての政党の解散、直接投票による大統領選挙を廃止。一九六六年に誕生したコスタ政権は左翼に対する徹底的弾圧を加え、立法府機能を停止、言論統制も始めました。(※軍政から民政へ移管するのは一九八五年)

 

戦後の日本とブラジル移住の再開

 戦争によって日本の国土は焦土と化し、農地も荒れ果てていました。そこへ満州などからの何百万人という引揚者が押し寄せ、終戦後の失業者数は一千万以上にも達します。食糧不足が深刻を極める中、一九五三年にブラジルへの移民が再開されました。

 日本政府は渡航費の貸付制度など移民促進の施策を行い、一九五一年には外務省に移民班を設置、一九五二年には神戸移住斡旋所を再開。一九五三年には移民課、一九五四年には外務省の管轄で財団法人日本海外協会連合会(海協連)を発足させます。戦前の送出機関は「募集、選考に慎重を欠き不適格な移民を渡航せしめ、わが移民政策の実行に少なからぬ不円滑を招いた」として公益法人である同連合会が設置されたのですが、募集要項と現地の生活がかけ離れることが続き、戦後の移民も辛酸をなめました。

 他方、東南アジアへの再移住論がはかない夢だったことを悟った戦前移民はブラジル社会との接点を積極的に模索するようになります。一九四七年には三四人もの市議会議員が当選、一九五〇年にはサンパウロ州議員が当選。その後軍政によって議員権が停止させられますが、永住傾向へと移り変わる移民の意識を裏打ちするかのように、日系人の多くが都市や都市近郊、またサンパウロ州以外の地へと移り住み、職種も洗濯業、食料・雑貨店、果樹栽培などへと広がっていきました。また、ブラジルの現地学校へ子どもたちを積極的に通わせるようになり、日系人学生の大学進学率は驚異的に伸長していきます。

 そのような中でブラジル社会の信望も徐々に獲得していきました。一九七八年に行われた移民七〇周年祭では、エルネスト・ガイゼル大統領が異例の長いメッセージを日系社会に発しています。

「わが国の統一性が堅固且つ安定していることは人種的文化的多様性とその祖先又は宗教が如何であってもブラジル人はすべて平等だという確信に基づくからであります。……日本移民とその子孫の活動は最初は農業に集中していましたが、今では各分野にみられるようになりました。ブラジルはその国民の間で差別を致しません。その系統が何であっても等しくブラジル人であります。我々を兄弟のように繋ぐものは、ブラジルに対する献身の精神であります。移住者は独特な伝統をもっていますが、これはすべてブラジル国家の形成に合流していきます。……すべてのブラジル人の平和と結合と相互理解こそブラジルの本当の国民性であります。この努力に対し我々の兄弟である日系人の協力は絶対に欠かせないものと思います。」

 異文化の中で暮らすことは移民にとって決して容易なことではありませんでした。異文化を受け入れることは、ブラジル社会にとっても大きな試練でした。しかし紆余曲折を経ながらもお互いの理解が進み、日系社会はブラジル社会にしっかりと根を下ろすこととなったのです。

終わりに

先日、神戸へ出かけた時に旧神戸移住センターを訪れました。この建物は一九二八年(昭和三年)、移住者のための無料宿泊施設、「国立神戸移民収容所」(一九三二年には「神戸移住教養所」へと改名)として幕開けました。現在、「神戸移住資料室」となっているのはこの建物の一階東側だけですが、四階まである館内全体が船内を模しており、近代風のらせん階段、複数の鉄管が通った天井、食堂、細長くまっすぐ伸びた廊下、細かく分かれた小部屋(当時の「収容室」)、古びた家具などに当時の面影が感じられます。館内の閲覧用写真集で、出港前の移住者たちの華やいだ様子や、おしゃれに仕立てた洋服での記念撮影などを見ると、ブラジルへ渡った人たちの気持ちの一端が垣間見えるようでした。

ブラジルへ移住する人たちは、この施設で研修や準備のために一週間から一〇日程度過ごした後、建物前から神戸港方面へと緩やかに下る鯉川筋(こいかわすじ)に沿って現在のメリケンパークのあたりから旅立って行ったそうです。

私の妻の祖父母は山口県で結婚、恐らく一九三〇年代の終わり頃にこの教養所を経てブラジルへ渡ったと思われます。残念ながら二人とも故人となってしまい、生前にお会いすることはできませんでしたが、私たちが移民のルーツをこのようにしてたどっていることをきっとどこかで喜んでおられることと思います。

 ブラジルへの移民の歴史がごく一部の人たちによってしか語られていない日本とは対照的に、地球の反対側ブラジルでは二〇〇五年七月二六日、連邦議会によって六月一八日を日本人移民の日とすることが法律で定められました。初の移民船笠戸丸がこの日サントス港に到着したこと、そしてブラジル社会の様々な分野における、今日までの日本人移民の貢献に敬意を払ってのことです。

移民の方たちのこれまでの苦労と貢献が今後の国際関係にも生かされることを願ってやみません。

松井 高 

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