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2008年2月 7日 (木)

05年12月号 戦前にブラジルへ渡った日本人移民

戦前にブラジルへ渡った日本人移民

 今年十月二日から五夜連続で、NHKドラマ『ハルとナツ』が放映されました。家族とともにブラジルへ渡ったハルが、一人で日本に残された妹ナツと七十年ぶりに再会するところからドラマは始まります。七十年前、当時家族は北海道で農業をしながら暮らしていました。しかし、凶作続きで飢え死にしなければならないところまで追い詰められ、一家は皆でブラジルへ働きに行くことを決意します。ブラジルで三年働いたらお金持ちになって日本へ帰ってこられるという話を信じて。ところが、出港直前に妹のナツはトラホーム(伝染性慢性結膜炎)と診断され、乗船不許可。「三年したらまた一緒にくらせるんだ、待ってる」というナツの言葉に後ろ髪を引かれる思いで家族は神戸港を離れていきます。一九三四年のことでした。

今回は、このドラマの時代背景を追って、戦前のブラジルへの移民について取り上げてみます。

地域や学校などで講演をしていますと、「なぜこれほど多くのブラジル人が日本に来ているのか?」と尋ねられることがあります。その答えは「なぜ二万人もの日本人がブラジルへ移住したのか?」と逆に問い直すことである程度答えることができます。

かつて、あるいは現在も数多くのブラジル人が家族と離れ離れになって来日を決意しています。とりわけ、泣き叫ぶ子を本国に置いて来日するのは、言葉では表現できないほどつらいものだと言います。けれども、そうせざるを得ない国内事情があり、それはかつての日本もそうだったのです。

黒人奴隷貿易から移民の受け入れへ

一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した後の一五〇〇年、ポルトガルの航海者ペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを発見します。

一五五〇年頃からサトウキビ栽培が軌道に乗ると、その働き手としてポルトガルと交易のあったアフリカから大量の黒人奴隷がブラジルへ連れて来られるようになりました。

それ以降、奴隷輸入禁止法が成立した一八五〇年までに約五〇〇~六〇〇万人もの奴隷がブラジルへ連行されたと考えられています。その後も国内奴隷貿易は続けられますが、時代の流れの中で一八八八年ブラジルはついに奴隷制度を廃止します。しかし、当時のブラジルはコーヒー産業が急速に拡大する時期にありました。

そこで、ファゼンデイロと呼ばれる大農園主は、奴隷の代替労働力としてコロノと呼ばれる契約労働者を雇い、一定本数のコーヒー樹を管理する代償としての年間一定の賃金と収穫量に応じた賃金とを支払うこととしました。

以降、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人など数多くの移民がブラジルの地を踏むこととなりますが、中でも移民数が最も多かったのはイタリアで、移民最盛期の一八九〇年から一八九九年の一〇年間の入移民総数約七三万人のうち、イタリア人の数は半数近い約三四万人にも達していました。しかし、一九〇二年頃のコーヒー不況でコロノ賃金の遅配・不払いがあいつぐと、イタリア政府はコロノ移民の送り出しを停止します。

深刻な労働力不足に陥ったコーヒー農園、その穴を埋める形で日本人のブラジル移住が始まります。日本とブラジル両国の間で移民斡旋の交渉がまとまり、第一回移民七九一人を乗せた笠戸丸(かさとまる)がブラジルへ着いたのは一九〇八年のことでした。

日本国内の貧困問題と戦前移民

一八六八年、明治新政府が誕生しますが、全人口の約七%を占めていた武士階級の失業、全人口の約八四%を占めていた農業分野での余剰労働力により、日本国内の貧困問題は深刻化していきました。

富国強兵を進める国家政策のもとで、農民は江戸時代よりも重い税負担に苦しみ、税(地租)を払えない人が後を絶たなかったため、一八八四年から一八八六年にかけては日本の全耕地の約七分の一が負債の抵当として流れるという状態でした。そのため多くの農民が職を求めて都市部へと流出することとなりましたが、当時その労働力を吸収するだけの力は都市部にはなかったため、海外への出稼ぎ需要は急速に高まっていきました。

個人で海外へ出稼ぎに行く日本人の数が増加の一途をたどる中で、明治政府はついにハワイ王国と移民協定を結び、一八八五年、政府の管理下でハワイに官約移民が送られます。その時の第一回募集は六〇〇人でしたが、申込者は約二万八千人にも達するほどでした。

海外への出稼ぎの増大のもとで一八九〇年代には移民会社が次々と誕生し、一九〇〇年代には六〇社近くにも増えていきます。

一八九四年から翌年にかけての日清戦争、一九〇四年から翌年にかけての日露戦争の勝利に国民は熱狂していましたが、庶民の生活は貧しく、アメリカへの日本人移民も一九〇七年には三万人以上にもなりました。ところが、アメリカやカナダでの排日運動の激化で一九〇八年には北米移民の道はほぼ閉ざされます。

そのような中、移民会社「皇国殖民会社」が一九〇八年に設立され、同年ブラジルへの移民を募集。一九〇〇年当初の小学校教員の初月給が一〇円から一三円という時代に、移民募集案内書には「移民は少なくとも一日に総収入壱円五拾銭以上壱円八拾銭を獲得することを得るなり而して一日の費用は一日付三拾銭にて足る故に差引純収入は壱円二拾銭以上壱円五拾銭なり」と宣伝されていたのです。家族三人で働けば一年で最低でも千円以上をためることができる計算でした。

一九〇八年四月二八日、七九一人の移民を乗せた笠戸丸が神戸を出港し、この時以来、日本からの主要移住先は北米からブラジルへと転換します。

一九一四年に勃発した第一次世界大戦にも日本は勝利し、近代化によってまちが華やかになっていく一方で、一九一八年には米価高騰による生活苦から総勢七〇万人にも及ぶ全国規模の米騒動が起こるなど、民衆の多くは深刻な生活難にあえいでいました。

一九一〇年代のブラジル移住者は約三万人。しかし、船旅は決して快適なものではなく、その衛生状態の悪さなどから一九一九年の「若狭丸」では脳脊髄膜炎で六〇名もの命が失われるといった状態でした。

一九二三年に発生した関東大震災は罹災者約三四〇万人、死者約一〇万人という大惨事を引き起こしました。政府は東京の復興のために莫大な予算を費やしますが、財政悪化は不景気を生み、生活苦から各地で対立や抗争が相次ぐ中、時代は昭和へと移ります。

一九二六年、昭和の幕開けとともに、震災後の資金繰りに行き詰まった金融機関が次々と破綻し、金融恐慌による不況が進行します。また一九二九年の世界恐慌が日本を直撃し、解雇や賃金カットなども相次ぎ、まちには失業者があふれ出します。

政府は軍縮、緊縮財政を断行しますが、軍部の暴走は一九三一年、満州事変を引き起こします。一方、一九三一年から一九三二年にかけて東北地方や北海道は大凶作に見舞われ、米価格も大暴落、欠食児童の続出、借金地獄、餓死寸前にまで追い込まれた農家が娘の身売りに走ることも相次ぎます。しかも、一九三四年にはさらに大きな凶作が農家を襲いました。

このような国内事情の中、ブラジルへの移住者は一九二〇年代に約五万人、続いて一九三〇年代には約十万人へとピークに達します。

ブラジル移住者の生活

一九〇八年六月一八日、笠戸丸はブラジルのサントスへ到着しました。移民収容所を経てそれぞれの農場へ向かうこととなりましたが、奴隷を使い慣れていたコーヒー農場主や監督たちは移民に対してもほとんど容赦しませんでした。

サンパウロ州では五月から九月までがコーヒーの収穫期です。農場に着いた人たちは早速、収穫の作業に担ぎ出されましたが、早朝から日が暮れるまでの重労働の日々。またその当時は農場主が賃金支払いに困るほどコーヒー価格が暴落し、移民会社の話と実際の賃金とは全く違ったものでした。移民会社は一人でも多くの移民を集めて手数料・斡旋料を得ようと、よく調査もせずに誇大宣伝をしていたのです。

ファゼンダと呼ばれる大農場の規模はとてつもなく大きく、近くのまちに出かけるのにも数十キロは離れています。そこで移民は農場にある売店から掛け売りで食料品や日用品を買うこととなりましたが、やっとのことで受け取った給料より売店での支払額の方が多く、どの家庭も売店への借金がかさんでいくばかりでした。

憤慨した日本人移民に対し、農場側は武器を備えて牽制しましたが、各農場から逃亡する日本人移民は後を絶たず、一年後の一九〇九年九月時点で当初配耕された六農場にとどまっていた者はわずか四〇人というありさまでした。

コーヒー価格が持ち直した一九一〇年には第二回移民、一九一二年には第三回・第四回移民などと続きましたが、一九一四年に第一次世界大戦が起こるとコーヒー価格は再び下落。コーヒー農園に失望した移民は、少しでも多い収入を得ようと各地を転々とし、ある者は職を求めて都市部へ行き、ある者は原生林などを切り開いて独立した農業を行おうとしたりしました。

移民の指導者が建設した植民地の最初のケースは平野植民地です。しかし稲作をしようと切り開いた湿地帯はマラリアの巣窟でもありました。蚊の発生を防ぐにはボウフラがわく水たまりを作らないことなのですが、稲作に適した土地は同時にマラリアが最も発生しやすい場所だったのです。

この地には二百数十家族が入植を希望しましたが、マラリアが猛威をふるい、わずか三ヶ月の間に八十数人が犠牲となってしまいます。平野二五周年史には次のように記されています。「(マラリアによる)死者を埋葬する人もなく、死後数日を放置せしものあり。或時は男手なく、女数人にて死骸を片附け、或は一人にて棺を送り出し、肉親を葬ったものあり。最愛の妻に死なれ、漬物桶や柳行李(やなぎこうり)に入れて彼の世に旅立たせるもかなりの数に上れり。其の窮状は目も当てられぬ有様にて、言語に絶し難し。」

マラリアで一命を取り留めた人たちも慢性化したマラリアによって発熱、貧血、疲労感などに苦しめられます。また、やっとのことで切り開いた土地もイナゴによって作物が一瞬にして食い尽くされたり、霜でコーヒー木が全滅したり、自立への道のりは非常に険しいものでした。

それでも各地で日本人会や農業協同組合などが生まれ、一九一六年には日本語新聞も発行され、日系社会の基盤は少しずつ固まっていきます。長期化するブラジル滞在と日本への帰国願望がますます募る中で、移民たちの関心は子どもたちの教育へと向かいます。日本へ帰った時に子どもが困らないようにと、日本人学校が次々と建設されていきます。いつか帰国できると信じていた移民たちにとって、ブラジルの学校に子どもを通わすことなど誰も考えていなかったのです。

日本では国策移民が開始され、ブラジルへの移民に対して、政府が旅費を全額負担するようになります。一九二七年には「海外移住組合法」公布、翌年には各都道府県に「海外移住組合」が設立。一九二八年には国立神戸移民収容所が開設され、移民が乗船するまでの宿泊費も無料となりました。さらに政府は一九三二年からは、ブラジル渡航の満一二歳以上の移民一人当たり支度金五〇円(子供は半額)の支給も始め、移民に金銭上の負担は全くなくなりました。

こうしてブラジル移民の数は一九三三年から一九三四年にピークを迎えますが、その後は一転急激に減少します。満州国での足場を確固たるものとしたい日本は、移民の流れをブラジルから満州へとシフトしていったためです。

後続移民が激減する中で孤立感を強めるブラジルでの日本人移民。貯えができた一部の移民は帰国を果たすことができましたが、大半の移民は経済的理由によってその願いをかなえることができませんでした。日本の目が「大東亜共栄圏」に向けられる中で、一九四一年に戦前のブラジル移民が終わりを告げ、同年ブラジルでは日本語新聞の発行が禁止。一九四二年には第二次世界大戦でアメリカ支持を決めたブラジルが日本との国交を断絶。公の場での日本語禁止、日本語教育も禁止され、「日本に棄てられた」との想いが移民たちに広がっていきました。

おわりに

一九九四年、初めて私がブラジルのサンパウロへ出かけた時、現地の日系人の方たちに本当にお世話になりました。サンパウロ郊外の農園を見せてもらったり、ごちそうになったり、宿泊場所を提供していただいたり、皆さんに温かく迎えていただきました。日系人がお金を出し合って作った高齢者や障害を持つ人の福祉施設も見学させていただきました。

中でも強く印象に残っているのはサンパウロ郊外にある高齢者入所施設「憩の園(いこいのその)」です。自然に恵まれた広大な土地に建てられた施設で、入居者一人ひとりの趣味活動などへの配慮なども行き届いていて、とても素晴らしい施設でした。けれども施設職員の方が言われた一言が今でもはっきりと私の頭に残っています。「私たちが唯一つらいのは、入所者の方たちの『日本に帰りたい』という願いにこたえてあげられないことです。」

松井 高 brazilnifty.com

【参考文献】

斉藤広志・中川文雄著『ラテンアメリカ現代史』山川出版

高橋幸春著『蒼氓の大地』講談社

藤崎康夫編著『日本人移民 ブラジル』日本図書センター

藤崎康夫著『ブラジルへ 日本人移民物語』草の根出版会

草柳大蔵監修『二〇世紀フォト ドキュメント』ぎょうせい

相賀徹夫編著『写真記録 昭和の歴史』小学館

『決定版 昭和史』毎日新聞社

大濱徹也監修『朝日新聞で読む二〇世紀』朝日新聞社

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