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講演記録

カテゴリー「1(財)滋賀県人権センター発行『じんけん』」の22件の記事

2008年9月15日 (月)

05年2月号 時間三〇〇円で働く外国籍労働者

時間三〇〇円で働く外国籍労働者

「内職を探している人がいるのだけれど……」知り合いの人から、ある中国人が仕事を探しているという話を聞きました。職場で毎日フルタイムで働いているそうですが、収入が少なく、少しでもお金をつくりたいというのです。

「内職をして毎日数時間働いても一ヶ月で一万円ぐらいの収入にしかならないし、普段の仕事を持っているのなら体を壊すよ」と答えたところ、その人は研修生として働きに来ているということで、正社員同様に働いても一ヶ月の収入はわずか八万円、さらに、そのうち三万円は会社によって強制的に貯金させられているというのです。週あたり四〇時間働いても受け取りはたったの五万円。これでは一時間の労働の対価は三〇〇円にも届きません。しかし驚いたことに、これは違法ではないのです。

研修生として来日する彼らには「研修」という在留資格(ビザ)が与えられ、一年間という期限付き(更新なし)で企業内研修を行うことが許されています。研修といっても他の労働者とさほど変わりない仕事を行うことが多いのですが、その名が語るように就業を目的としたものではないため、最低賃金法の適用対象外となっているのです。

外国人研修制度は外国人技能実習制度とならび、国際協力や国際貢献の一翼を担う国の制度として一九九三年から実施されています。この制度を推進、指導しているのは国際研修協力機構(http://www.jitco.or.jp/)という外郭団体ですが、そこでの制度説明によりますと一年以内と定められた研修期間中、研修生の受入れ機関は「生活実費としての研修手当」を支払うこととなっています。けれどもその金額について明確な規定がないため、結果的に受入れ企業が給与と比べて相当低い手当額しか払わない傾向が強いのです。

制度の本来の目的は「諸外国の青壮年労働者を日本に受け入れ、1年以内の期間に、我が国の産業・職業上の技術・技能・知識の修得を支援すること」にあるのですが、安価な労働力を確保する目的で同制度を利用する企業が多いこともあり、研修生の数はここ数年で急増しています。

法務省が発表している外国人登録者統計(http://www.moj. go.jp/PRESS/040611-1/ 040611-1.html)によりますと、「研修」の在留資格を持った外国人登録者数は平成一一年末に二六、六三〇人だったのが平成一五年末には四四、四六四人と、ここ四年だけでも約一・七倍に膨れ上がっています(研修生の内訳は約九八%がアジア人で、その約七割が中国人)。

「派遣会社が南米人を解雇して中国人などにシフトしてきている」という話を私は何年も前から聞いていました。実際、私の友人が「自分の住んでいる(愛知県の)県営住宅では、今はブラジル人よりも中国人の数の方が多くなっている」と言っていたとおり、その場へ出かけてみて中国人の多さにびっくりしたこともあります。また、派遣会社の人が「ブラジル人では儲からないから、これからは中国人だ」と言っているのを聞いたこともありました。

企業がより安い人件費に価値を置けば置くほど、そこでの倫理観の低下も見られるようになってきています。

今年一〇月一九日付の毎日新聞は、国の研修・技能実習制度に基づき、外国人研修生が企業で働くための受け入れ責任を担う事業協同組合「栃木情報センター」が、公式ホームページ(http://www.toic.net/)上で「安価な労働力」を強調して企業に活用を呼びかけていた、と報じました。同組合のホームページでは「安価な労働力コスト、安定した若手労働力と身分保障された人材確保が可能」「月々一二万円からという低コスト」「国家間の賃金格差の分、比較的低コストの労働力を確保することができます」などと掲載されていたといいます。

ほとんどの企業では支出に占める人件費の割合が高く、経費削減の一環として人件費を見直さざるをえない状況になることもあるかもしれません。しかしながら実際に職務にあたるのは生身の人間です。安ければ安いほど良いという価値観は、人権を無視することにもつながりかねません。たとえ外国籍労働者であろうとも、最低限の生活保障を考えることは企業責任でもあるといえますが、その責任を果たさない事業所は後を絶ちません。

二〇〇三年五月二六日付けの毎日新聞は次のように報じました。

「造船大手の川崎造船(神戸市)の関連会社など二社が、国の外国人研修・技能実習制度で受け入れ、香川県坂出市の工場などで働くフィリピン人実習生に対し、雇用契約書で示した給与の半額以下しか支払っていなかったことが二五日、分かった。両者合わせたこれまでの未払い額は、少なくとも総額二億円程度とみられる。」

フィリピン都市部での平均月収は約一万円。実習生だったフィリピン人男性は、「家族を養わないといけない。娘も学校に通わさないといけないし、彼女の病気を治すお金が必要だった」として来日を決意したといいます。「日本は世界でも有名な工業国で、日本人も平和的で友好的。仕事も頑張ろうと思った」。ところが、その想いは日本への失望へと変わります。

「研修の一年が終わり、実習生になる二年目に入る前に、男性ら実習生は一堂に集められ、ある書類にサインさせられた。会社の担当者は『(書類を)読んではいけない。質問してはいけない。こちらから説明はしない』と話し、サインを要求。書類はすべて日本語。彼らはサインをするしかなかった。その書類は基本給を十五万円とする雇用契約書だった。しかし彼らの給与明細に実際に記載されている数字は時給三〇〇円、残業手当時給五五〇円、深夜手当六〇〇円。明らかに契約書とは違う賃金体系で、時給額は香川県の最低賃金時給(約七六〇円)の半分以下だった。」

最低賃金を遵守しない行為や、逃亡を防止する目的で給与の一部を会社が強制的に貯金させるといった行為が常態化しているという指摘すらあるにも関わらず、現在の制度が抜本的に改善されないのはなぜでしょうか。

坂出市の事件に関連し、六月一三日付の記事は次のように報じています。

「同制度は発展途上国の経済発展を担う『人づくり』に協力するという目的の下、九三年から本格的に運用された。しかし、関係者によると、中小企業団体などから『安い外国人労働力で人手不足を解消させたい』との強い要請があったという。バブル期から日本の三K職場では若者離れが進み、その穴を埋めていたのは不法就労者。『不法就労者は排除したいが、代わりをどうすべきか』。国が頭を痛めながら、企業とともに編み出した“妥協の産物”だったという。……中略……

こうした不正の背景には、同制度の不備がある。まず研修・実習生の待遇の問題だ・来日1年目は研修生として扱われ、『非労働者扱い』。実習生となる二年目からは、雇用契約を結んだ『労働者』扱いとなり、労働基準法などで一応守られる。しかし研修生には給与の規定はなく、企業側が判断した生活実費が支払われるだけ。不当に安い手当が支給されても罰則もない。

また企業側の違法行為が発覚した場合、通常は、入国管理局が「受け入れ不適切」と判断すると、非のない彼らは帰国させられることとなる。

坂出市のケースでは森山真弓法相が一一日に実習継続を検討する旨の異例の国会答弁をしたが、その前の六日には、高松入国管理局の帰国指導が出されていた。実習生らが安易に内部告発できないのも、『表面化すれば結局、帰国しなければならない』という恐怖感が根強いためだ。彼らは技能習得半ばで帰国しても、働き口はほとんどない。」

記事は「入管(法務省)が帰国指導をしても、厚労省は口出しできない。問題が起きた際、実習生らを『保護する』という視点は完全に抜け落ちている」と結んでいます。

日本の国際化はこれまで産業界の要請に基づいてすすめられてきたように思えます。 かつてのバブル景気の時期一九九〇年には「出入国管理及び難民認定法」が改正され、南米などの日系人が「定住者」という在留資格などを有して製造業等の担い手として、とりわけ三K(きつい、きたない、きけん)と呼ばれる職場で合法的に働くことが可能となりました。この時も、産業界から国に対して強い働きかけがあったと言われています。企業にとってみれば、固定給や賞与・社会保険料を負担する必要もなく、忙しい時は何時間でも残業をし、休日でも出勤してくれる日系人の存在は好都合のものだったに違いありません。

日本社会が不景気に突入し「リストラ」という言葉が巷で頻繁に聞かれるようになると、真っ先に解雇対象となったのも南米人などの外国籍労働者でした。大半の事業所では日系人との間に雇用期間を定めた雇用契約書を作成しておらず、会社都合での解雇を簡単に行えたためです。ほとんどの人は退職金もなく、雇用保険未加入なために失業手当も受けられず身一つで放り出されました。また景気の悪化につれて年々時間給の相場も下がっていきました。

一九九九年四月に男女雇用機会均等法の改正と同時に労働基準法が改められ、女性労働者に対する時間外・休日・深夜労働の規制が廃止されると、雇用の分野における男女の均等取扱いと女性の職域の拡大という名のもと、それまで深夜勤務にあたっていた男性外国籍労働者は、より人件費の安い女性外国籍労働者に切り替えられていきました。

そういった流れの延長線上で外国人研修・技能実習制度も国によって創設され、今やニューカマーの主な層は南米系からアジア系へと移ってきています。

 国際化の度合いが国策によって左右されることは、現在の国家間の格差を考えればある程度仕方がないとしても、日本の現在の政策は余りにも経済効果という側面に偏りすぎ、人権への配慮ということがおろそかになっているのではないかと思います。例えば被害者救済という視点。「表面化すれば結局、帰国しなければならない」、その恐怖心をとり内部告発をすすめるためにも、被害者には「特定活動」の在留資格(特別滞在許可)を与え、合法的に日本で滞在できるよう身分を保障すべきだと思いますが、それができないところに現在の施策の限界があります。これは現在の政策の方針を大きく転換させない限り根本的には解決できないことだからです。

 国立社会保障・人口問題研究所(http://www.ipss.go.jp/)が発表した「日本の将来推計人口(平成一四年一月推計)」低位推計によりますと二〇五〇年には現在の人口よりも約三千五百万人程度少ない約九千二百万人にまで減少します。日本人の少子化がこのまま進行し、現在の人口を維持するためにその分をすべて外国籍者に頼るとすれば、毎年約七七万人(この数字は滋賀県の総人口の半数以上にものぼります)もの新たな外国籍住民を必要とします。ところが制度の上でも住民意識の上でも私たちの国際化への対応は遅々としてすすんでいません。

 在日外国籍住民への医療・教育・社会保障などの整備、難民を含め外国人の積極的な受け入れや国内の非正規滞在者への人道的措置、食糧危機・経済格差・環境破壊問題など世界的視野で物事を考えられるような教育への転換など、いずれにおいても日本が開かれた国になっているとは言い難い状況です。

 また研修制度・技能実習制度の問題点もつきつめれば私たちの「内と外」の思想、内には優しく外には冷たいといった考え方にも行きつくかもしれません。「外国人やし仕方ないわな」とか単に「外国人てかわいそうやなあ」と同情するだけで終わっていないでしょうか。この原稿を書いている今、インドネシアのスマトラ沖大地震による津波により死者数は一四万五千人に達しています(一月三日現在)。外での出来事をいつも自分自身の問題として考えられる、そういう人間になりたいものです。

07年10月号 不就学をなくすために

不就学をなくすために

 

外国籍の子どもの不就学、すなわち日本国籍を有しないために教育の義務規定が適用されず、小中学校の就学年齢にありながらいずれの学校へも通っていない状況については、これまで『じんけん(二〇〇七年二月号)』などで述べてきました。

 不就学の状況については、近年まで一部の自治体を除き、その実態がほとんど把握されてきませんでした。そこで文部科学省は「不就学外国人児童生徒支援事業」を創設、平成一七年度から一八年度にかけて一二自治体へ「外国人の子どもの不就学の実態調査を委嘱」し、昨年度には滋賀県も同事業を受託することとなりました。私たちNPOは教育委員会などと連携をとりながら企画立案、調査票や翻訳資料の作成、湖南市における年末年始の戸別訪問調査などに関わってきたわけですが、それらの調査結果が文部科学省からようやく公表されました。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/003/001/012.htm

 その結果、一二自治体の不就学者数合計一一二人のうち滋賀県が過半数以上(五七人)を占め、滋賀県内における状況が特に深刻であることが浮き彫りとなりました。

私たちNPOは県内のネットワークを広げる中で、就学年齢にある子どもたちが工場で働いていたり、家事手伝いや、きょうだいの世話をしたりしている状況について以前から断片的に把握し、そのことを関係機関に訴えてきたのですが、この状況は現在も何ら変わっていません。

 そこで今号では、どのような経過で不就学が生じるのかについて触れながら、状況改善に向けた具体的方策について述べてみます。

(1)初来日以降、不就学となるケース

 日本で暮らす外国籍住民は居住地の役場で外国人登録を行うこととなっています。就学年齢の子どもがいる場合、外国人登録の後すぐに教育委員会へ行ってもらうよう案内することを原則としている自治体が多いようですが、外国人登録窓口の担当者がそのことを伝え忘れたり、登録者がすぐに教育委員会を訪ねなかったり、登録窓口から教育委員会へ就学年齢の子どものデータが送付されなかったり、教育委員会へデータが送付されてもその後しかるべきフォローがされず、子どもの学習環境が把握されないまま放置されたりということが起きています。

就学状況を把握するために、外国人登録証に就学先の記載を求めてはどうかという意見も外国人集住都市会議などで出されていますが、入国管理は必要最低限に、行政サービスは最大限に、という観点からすると、この提言は必ずしも歓迎すべきものではないと私自身は考えています。むしろ、外国人登録窓口と教育委員会との情報伝達にもれがないような工夫、例えば就学年齢の子どもの場合には外国人登録を行う前に教育委員会の受付を済ませてくるなどの方法を行えばいいのではないかと思います。さらに言えば、子どもが転入(入学)を行う際には、外国人登録は必ずしも必要ではないのです。

 

(2)再来日以降、不就学となるケース

 外国籍の人たちが一時帰国する場合、通常、入国管理局で再入国許可の申請を行います。ところが、再入国許可によって帰国した場合、居住実態がなくても外国人登録は役場でそのままとなっているため、再来日したことを関係機関が知ることは難しく、再来日後、不就学が生じてもそのことを把握することが困難だという問題があります。入国管理局は一人ひとりの出入国事実を把握できる立場にあるのですが、先に述べたように、出入国管理と地域行政とは切り離すことが望ましいため、一時帰国に伴う出入国事実について役場が把握できるような工夫をすることが必要だと思います。例えば、帰国前・帰国後に役場で所定の手続きを行えば税の減免を受けられるようにするといったことです。一時帰国であっても外国人登録は役場にそのまま残っているため、長期間に渡って帰国していた場合、再来日の際に過去に遡って税徴収がなされます。そのため、一~二年間も帰国していれば、再来日後に数十万円の国民健康保険税の請求がされるような場合があります。そこで現在でも役場によって、あるいはケースバイケースで一時帰国の間の税の減免措置が講じられています。一時帰国者にとって、税の減免措置によるメリットは非常に大きいため、ルール化さえできれば一時帰国・再入国の状況を役場が把握し、再入国後の子どもへの対応もとりやすくなるのではないでしょうか。

  

(3)日本国内での転居以降、不就学となるケース

 基本的には、(1)や(2)で述べたと同様、転居先の役場がしかるべき対応をとれば子どもの就学状況についての把握が可能です。しかし、転出したことを役場に届け出ていない場合も少なからずあります。その場合、子どもの外国人登録は旧住所のままとなるので、子どもの就学状況について転出先の関係機関が把握することは非常に困難です。この問題を軽減するためには、保護者の勤め先の協力が不可欠です。外国籍者を雇用する場合は本人やその家族が外国人登録を先に済ませるよう、企業が責任を持って行うこと。このことを徹底することで外国人登録の住所地と実際の居住地とのずれを減らすことができます。なぜなら、新しい勤め先が見つからないうちに転居をすることはあまり考えられないためです。

 また、転居に際しては別の問題点もあります。それは、旧住所地で通っていた地域の小中学校や外国人学校に対して本人や家族がネガティブな印象を持っていた場合、転居をきっかけに不就学となることも考えられるからです。このことについては、(4)や(5)の項目で述べます。

(4)日本で地域の小中学校へ通った後、同じ居住地でありながら不就学となるケース

 これは不登校の状態と似通っています。異なるのは、不登校の場合、学籍はそのまま残り続けるのですが、不就学の場合、学籍そのものがなくなってしまうことです。そのような状態に至るには様々な要因があります。

一つには、授業内容がほとんど理解できないために、本人が学習へのモチベーションを失ってしまうこと。この問題を軽減するには、地域の学校へ入る前の基礎的な日本語学習、転入(入学)後のカリキュラムにおける日本語学習や母語(母国語)を介しての学習サポート、放課後や休暇中の学習サポート、学校と本人やその家族とのコミュニケーション促進などを効果的に行っていけるよう取り組みを行う必要があります。

 もう一つは、いじめにあったり、対人関係がうまくいかなかったりすることで、子ども自身が学校の中での居場所を失ってしまうこと。外国籍の子どもへの支援と言うと本人への学習支援が真っ先に頭に浮かびそうですが、子どもにとって学校の中での孤独感、居場所のなさほどつらいものはありません。これまで教育相談を行ってきた私自身の経験から言っても、対人関係のもつれが不登校や不就学の直接のきっかけとなるケースが多いと言えます。人権教育や国際理解教育の充実、子ども同士のコミュニケーションが促進できるようなカリキュラムづくりも必要ではないでしょうか。

 さらに、中学二~三年生ぐらいの年齢の子どもの場合は、就労がきっかけで不登校や不就学へと至ってしまうこと。中学年齢の子どもを就労させる会社の摘発強化や、その年齢での就労が違法であることの啓発を外国籍住民へ行っていくことも必要ですが、それと同時に、子ども自身の居場所づくりが不可欠です。学校を欠席がちとなっている外国籍の子どもに対するサポートがあまりにも不足しているように思えます。

 また、「ブラジル人学校へ転入する」などと言って学籍を外した後、実際にはそこへ通わず不就学となってしまうケースも見受けられます。そもそも、外国人学校は「各種学校」を除けば、日本の法律で「学校」として認められていません。さらに本国の政府からも認可されていなければ、たとえそこを卒業しても、本国ですら学校を卒業したこととして認められません。そのため、地域の小中学校によっては、学籍をその学校に置きつつ、外国人学校への通学を認めているところもあります。そうすることにより、日本でも本国でも正式に学歴・卒業資格として通用し、進学も容易となるからです。また、地域の小中学校へ学籍を置くことによって、学校を通じての家庭訪問なども可能となり、その後の子どもの教育環境の把握も容易となります。

 

(5)日本で外国人学校へ通った後、不就学となるケース

 これについても、内容については(4)と同様のことが起こっています。日本での生活が長期化している子どもたちにとっては、母国語の理解も難しくなりつつあるでしょうし、必ずしも対人関係がうまくいくとは限りません。しかし外国人学校の場合、子ども同士、子どもと教員、保護者同士、保護者と学校などのコミュニケーションがとりやすいため、自助努力で問題を解決できる環境にあると言えます。むしろ、学校をやめてしまう主たる原因は、経済的理由によるものです。外国人学校は現行法では(各種学校を除けば)私塾扱いなので、公的援助は一切ありません。ゆえに保護者の学費負担は重く、月謝は子ども一人につき四~五万円前後となっています。そのため、親が解雇されることなどをきっかけに学費を支払うことが難しくなり、そのまま不就学となってしまうケースも想定されます。

子どもの教育環境を把握するためには、外国人学校へ通っている子どもの状況について、公的機関が定期的に情報を得る必要があります。外国人学校の関係者の中には、自分たちが子どもの個人情報を公開することに抵抗感を持つ人もいますが、すべての子どもに学習機会を保障するためには、関係機関の情報交換は不可欠です。守られるべきことは子どもの最善の利益なのですから。

 

07年8月号 外国籍住民への行政サービスについて

外国籍住民への行政サービスについて

 私は現在、草津市、栗東市、守山市でポルトガル語による行政相談を行っています。行政相談と言っても、主たる仕事はポルトガル語の通訳や翻訳なので、私自身は専門相談員ではありません。しかし私に限らず、このような行政相談を行う人たちには、何をすべきか、自ら考えて行動しなければならないことが多くあります。

 例えば、「生活が苦しいので税金を減額してもらうことはできませんか?」という相談があったとします。単に通訳だと割り切って税務課で言葉通りに伝えると、「税金は前年度の所得に基づいて課税されるので、減額することはできません」という回答になります。けれども、税務課へ向かう前に「役に立てないかもしれませんが、どうして経済的に困っているのか話していただけませんか?」と話を切り出してみると、相談者の生活の様子が分かり、その人のニーズに即した対応ができることもあります。

 例えば、「最近会社から解雇されてしまった。妻は働いているが、小学生の子どもと就学前の子どもを養わないといけないし、本国の家族への仕送りや、高い家賃も払わないといけないので税金を払うだけの余裕がない」という話を聞いたとしましょう。

 まず、住民税の減額は原則的にできないのですが、住民税が何に基づいて決まるかと言えば、前年度の所得(国民健康保険税の場合は「給与所得控除後の給与の額」)です。そのため、相談者が年末調整や確定申告の際に正しい申告をしたかどうかを確認することが必要となります。外国籍の人たちの場合、税金のシステムについての知識も乏しいため、扶養や社会保険料(国民健康保険税など)などの申告漏れが多いのです。本国へ仕送りをしているという話から、本国で暮らしている家族が被扶養者となっているかを確認する必要があります。また、仕送り先の同居家族しか被扶養者に入れることができないと考えている人もいますが、仕送りの受取人が別居している親戚などの生計を支えているような場合(例えば、本国の父に仕送りし、父が別居している収入のない叔父・叔母のために送金をしている場合)、叔父・叔母も被扶養者として申告することが可能です。確定(修正)申告のためには、必要な書類を本国から取り寄せたり若干の手間はかかりますが、被扶養者を正しく申告することで、月々の給与から控除される所得税が減額となったり、所得税の還付を(五年前までさかのぼって)受けられたり、住民税や保育料が減額となったり、家計を助ける上でのメリットは非常に大きいと言えます。

 子育ての費用に関しては、児童手当の申請ができているかどうか確認する必要があります。と言うのも、児童手当の受給年齢が小学六年生の三月まで延期されていることを知らない人もいるためです。こういった情報は広報に掲載されたり、郵送で通知されたりするのですが、日本語で書かれた文書では何が書かれているか分からず、未申請のままとなっていることもあるのです。さらに、低所得世帯(住民税非課税世帯など)に限定はされますが、就学援助費を受けることもできます。

 失業時の税金の減額ということは余程のことがないと難しいですが、再就職するまでの間の税金の支払いを猶予や、月々の支払額を減額して支払いを順送りにするという方法はあります。というのも、現在失業しているのであればその年の収入が減り、次年度に税額が減額されるという見通しも持てるからです。また、再就職先については、ハローワークで外国人向けの相談(通訳)日を設けているので、参考までに連絡先を渡した方が良いかもしれません。

 また、家賃の負担が重たいということであれば、県営住宅と市(町)営の住宅についても情報提供する必要がありそうです。現状は狭き門となっていますが、家庭の状況と運(?)次第では入居できる可能性もないとは言えないからです。

 その他、一時的な借り入れについては少額ですが、社会福祉協議会などで(無利子での)小口貸付制度などもありますし、歳末助け合い募金による年末一時金などが受け取れる場合もあります。

 そのように、行政通訳といえども施策などについての様々な知識が要求されるのですが、一人の相談員だけでこれらの相談の応対をしている場合、その相談員が交代した途端に相談機能が低下してしまう恐れがあります。また、相談員に知恵を貸してくれる担当職員が仮にいたとしても、人事異動で担当職員が次々と変わってしまい、相談窓口としてのノウハウが蓄積されないという問題があるのです。

 それを解決するためには、役場内に総合相談窓口を創設することが必要だと私自身は思っています。大きな病院の中には、何科を受診したらいいか分からない人のために総合的な診療を初めに行い、そこでの診療をもとに必要な診療科へ案内するという流れを作っておられるところもありますが、役場内においても総合相談から個別窓口の相談へという流れを備えておくべきだと感じています。この仕事を始めるまで私自身もよく知らなかったのですが、役場内には実は数多くの専門相談員が関わっています。嘱託としてどこかの部署に配属されている場合もありますし、社会福祉協議会など半公半民のような団体が専門職の人(弁護士や税理士など)を招いて相談日を設けているような場合もあります。

 けれども、外国籍の人に限らず、日本人でも自分の求める部署や相談機関へなかなかたどりつけないことがあるのです。役場は住民へのサービスを提供する最大機関の一つです。だとすれば、相談者の視点に立った組織作りは急務ではないでしょうか。

 

問題解決を図ろうとする姿勢

 市役所へ相談に来るということは時としてとても勇気のいることだと思います。簡単に解決できることであれば、平日わざわざ市役所へ足を運ぶことはないでしょう。けれども、同じ相談を受けながら、いつまでも問題が未解決のままになっているということもよくあります。

 例えば早朝保育について考えてみましょう。

 「七時一五分から保育園で子どもを見ていただくことはできませんか?」

 南米の方たちのほとんどは工場で働いているのですが、工場の就業時間は早く、日勤の場合、通常午前八時までにはそれぞれの持ち場についていなければなりません。職場で服を着替える必要があったり、外国籍の人たちの多く(特に女性)は自家用車を持っていないので移動手段は自転車や送迎バスなどになったりしてしまいます。自宅や職場の近くに保育園があるとも限りません。逆算すれば、七時一五分頃でないと仕事に間に合わないということになるのですが、この一五分がどうにもならないことが多いのです。

「七時半からしか受け入れができないことになっています。」

「では、どうしたらいいのですか?」

「でも、他の皆さんでも七時半からということになっていますから。」

 そんなやりとりが毎年毎年繰り返されます。就労する両親を支援するのが保育園の役割であるにもかかわらず、この一五分のために就労を断念せざるをえないことも起こるのです。近年、夕方から夜にかけての保育時間は延長されてきているようですが、両親ともに工場労働者という日本人家庭は少ないのか、早朝保育だけは時間の繰り上げがなかなかすすまないようです。同じ質問を受けて、いつまでも「それはできません」と繰り返し言い続ける私たちもつらい気持ちになります。

 また、実態よりも書面優先ということも実務レベルではよく起こっています。

 例えば、「夫と別居しているし、離婚もしたいのだけれど、離婚する費用もないし、子どもが小さいのであまり働くこともできない」というような相談の場合です。

 役場の中では母子家庭に対する支援はかなり手厚くなっています(児童扶養手当、医療費扶助、公営住宅への優先入居など)。ところが、生活の困窮状況が分かる場合であっても、書面上では離婚していないために、いずれの制度も利用できないということが起こっています。日本人同士であれば役場へ離婚届を提出するだけで離婚が成立しますが、ブラジルなど原則的に離婚を認めていない国では、弁護士を介してしか離婚手続きは行えないようになっています。日本で離婚手続きを行おうとすれば、多額の費用をブラジル人弁護士へ支払わなくてはならず、手付けだけでも三十万円以上は必要と言われています。そもそも多額の離婚費用の支払いに快く応じてくれるような夫であれば、離婚することもないかもしれません。

 役場の窓口の人は「正式に離婚しないと母子家庭にはならないので、母子の福祉制度を利用することはできません」と言います。けれども、残された妻や子どもへの救済措置がないというのはあまりにも不条理です。いつまでも同じ相談を受け、いつまでも同じ回答を繰り返すよりも、相談者のニーズに応えられるように、制度を見直すことはできないものだろうか、と考えてしまいます。

多様化する住民ニーズへの対応

 

 「子どもが高熱を出していて病院へ連れて行きたい。通訳をお願いできませんか?」

 我が家にはこんな電話が時々かかってきます。役場の相談窓口では、医療に関する相談はほとんどありません。けれども、それはニーズが少ないということを表しているわけではありません。外国籍の人たちにとって、病院は間違いなくコミュニケーションが最も難しい場所の一つです。日本人ですらお医者さんが言っていることが分かりにくいぐらいですから、外国籍の人たちにとってはなおさらです。

 ところが、滋賀県在住の外国籍者の半数は南米の人であるにもかかわらず、その主要言語であるポルトガル語やスペイン語での医療現場の応対は一向にすすんでいません。誰でも、いつでも、どこでも安心できる医療システムの確立が目指されているにもかかわらず、病院での通訳配置、医療電話相談、医療通訳の派遣制度、救急時の外国語マニュアル、薬剤についての翻訳など、他府県で取り組まれている事業のいずれも滋賀県では行われていません。医療は時として命にも関わる大きな問題で、何らかの行政施策がなければ課題解決は難しいことです。にもかかわらず、ほとんどの役場にはそれに対応する部署すらありません。

行政相談を行っていると、そういった問題も時として持ち込まれます。「それは、こちらの相談業務で扱っている内容ではありません」と言うことは簡単です。けれども、相談者からすれば「では、どこに相談すればいいのでしょうか?」ということになってしまいます。

 幅広い住民ニーズに耳を傾け、必要な情報を収集・提供したり、課題解決に向けた新たな措置を図ったりする行政サービスを期待したいものです。

終わりに

  相談事業を通じて思っていること、感じていることなどを述べてきましたが、組織を作るのが人である以上、最終的には私自身も含めて、そこで働く一人ひとりの姿勢が問われているのだと思っています。

 「できません」「分かりません」と言うことは簡単です。けれども、身勝手な相談でもない限り、相談者の人と一緒になって課題解決の方法を探ろうという気持ちだけは持ち続けたいものです。

外国籍の人たちへの行政サービスを考える際には、日本人と同様のサービス提供を行えているか、日本人と同様にサービスへアクセスできるよう配慮がなされているか、という二つのポイントが重要となります。けれでも、難しいことを学ぶまでもなく、大切なことはひと言で表すことができます。

それは「思いやり」です。

自分が同じような立場だったらどう思うだろうか、どう感じるだろうか、想像力を働かすことで一人ひとりがすべき行動は見えてくるのではないでしょうか。

2008年3月18日 (火)

07年6月号 ブラジルのインディオ

ブラジルのインディオ

インディオの起源は今から約四万年前に遡ります。氷河期だった当時、世界の大陸の大部分は雪と氷で覆われていました。アジアで生活をしていた人類は食べ物を求めての大移動を余儀なくされ、東シベリアへ、さらには氷で覆われて陸続きとなっていたベーリング海峡をアラスカへと渡り、北米や南米の温かな気候の地に適合していったと考えられています。
ジャングルの密林の中では同じ種族であっても部族間の接触がほとんどなかったために、長い年月とともに各々の言語や文化は独自性をさらに強め、ポルトガル人がブラジルを「発見」した西暦一五〇〇年には、ブラジル全土で約一〇〇〇部族、三〇〇万から五〇〇万もの先住民が暮らしていたと思われます。
インディオという言葉は、インドの人という意味です。探検者たちがブラジルを
インドと勘違いし、インドの人を表すインディオという名称を勝手につけてしまったのであって、彼らにとっては迷惑な言葉に違いありません。そのため、この言
葉を使うのは好ましいことではないのですが、すでにブラジル社会でも定着した言葉となっているので、ここではインディオとはヨーロッパ人にアメリカ大陸が「見」される以前に、その地に住んでいた先住民及びその子孫のことだということにしておきましょう。

 様変わりするインディオ社会

 平和に暮らしていたインディオの生活はポルトガル人の侵略によって様変わりします。ある者たちは虐殺され、ある者たちは強制的に労働に従事させられ、また白人(インディオは非インディオの人たちを白人と呼んでいます)との混血もすすんでいきました。概して言えば、沿岸部や開拓地域ほど白人との関係は濃厚なものとなり、人口密度の低い地域や奥地ほど白人社会からの影響を回避してきたと言えます。
 その結果、インディオ社会は、白人との接触がいまだにないインディオ(集落の跡などから現在少なくとも約五四部族が確認されている)、白人と断続的にしか接触を持っていないインディオ、白人との接触が比較的多く、自分たちの生活様式を守りつつも、都市部などで生産される品々を生活の中に取り入れているインディオ、白人との接触が日常的で、都市部などで生活基盤を持つインディオの四つに類別されるようになりました。
 ブラジルで暮らすインディオの総数は現在約七五万人ですが、半数以上のインディオはすでにインディオ集落から離れて暮らしており、旧来の生活様式を保っているのは残りの約三五万人のみです。サン・パウロ州などを含め、今でもブラジル全土でインディオが生活していますが、大半の部族はアマゾン地域に集中しています。いまだにアマゾン地域のことはよく分かっておらず、私たちが知らない部族がさらに多くあると言われています。

 インディオの文化

 さて、インディオというと、皆が似たり寄ったりの生活をしていると思われがちですが、実際はその部族によって、宗教、言語、定住性、住居、食べ物、農業、衣服、踊り、祭り、儀式、婚姻など、その文化や価値観は多様性に富んでいます。例えば言語に関しては、二〇〇年程前までトゥピ語がブラジル全土で最も多く使われていた(ポルトガル人がトゥピ語の使用を禁じる法律を作ったため、その後はポルトガル語の普及がすすんだ)ものであるため有名ですが、それ以外にも約一七〇もの異なる言語が現在も存在しています。そのため、幾つかの言語を知っていないと部族間のコミュニケーンをとることすら難しいという状況が起こってきます。居住場所についても、定住性の強いインディオ部族もあれば頻繁に集落を移動する部族もありますし、中には馬を主たる移動手段に使っている部族もあります。住居についても、一家族ごとに一つの家を作る部族もあれば、大きな家を一つだけ作り、そこで六五~八五人もの人たちが共同生活している部族もあります。婚姻についても一夫多妻制の部族もあればその逆もあり、女性が男性に求婚するのが常となっている部族もあります。
 しかし、インディオすべてに共通して言える特徴もあります。それは自然との調和を何よりも大切にし、そこで得られたものは皆で平等に分配し、富の蓄えを目的に自然のものを浪費することは決してないということです。インディオは自然に対する豊かな知識を有し、畏敬の念を持ちながら暮らしています。
 住居、カヌー、弓、矢、陶器、かご、ハンモック、飾りなど生活に必要なものはすべて自然の中にあるものから作り出します。これは子どもも同様で、遊びに使われるものはすべて自然の中にあるものばかりです。ゴムの木やツタからボールを作り、大きめの葉っぱから折り紙を作り、楽器や人形、コマ、ペテッカ、編み物などあらゆるものが自然から作り出されます。
 インディオの生活は子どもたちにとって最高の遊び環境で、遊ぶ材料には事欠きません。木の枝などに何かをぶら下げてはジャンプ遊びをし、石をわらと羽根でくるんだペテッカ(トゥピ語で「叩く」という意味)を手のひらで叩いて遊び、ツタを使ってあやとりをし、かくれんぼ、鬼ごっこ、竹馬、こままわし、なわとび、綱引き、川での水遊びなどをしながら日々を過ごします。
 そして、遊ぶときはいつも他の子どもたちと一緒です。すべての子どもが同じ遊びを知っていて、誰かが新しい遊びを始めると、すぐに他の子どもたちに伝えていきます。おもちゃについても同様で、誰かが新しいおもちゃを手にすると、他の子たちも同じものを手にし始めます。けれども、おもちゃを作るのは大抵、両親です。刃物を使って丁寧におもちゃを作ってくれる大人の姿を見ているので、子どもたちはおもちゃを大切に扱い、少々壊れることがあってもそれを修理していつまでも使い続けます。
 また、子どもたちは遊びながら学び、学びながら遊びます。例えば、子どもたちの大好きなものに狩り遊びというものがあります。子どもたちが二チームに分かれて、一チームは狩人に、別のチームは獲物になります。最初に獲物のチームが林の中に入って隠れ、しばらくたってから狩人のチームが獲物を探しに出かけます。獲物が全員見つかったらチームの役割交代です。また、一人がひょうたんを引っ張り走り回ると、他の子たちは小さな弓の矢でひょうたんの的あてを始めます。子どもたちは川遊びが大好きですが、水遊びは筋力を鍛えるのに最適です。さらにこんな遊びもあります。
 二人一組でチームを作り、一人がパートナーを肩車します。対戦するチームも同様に肩車し、水の中で相手チームの肩車されている子どもをつき落とした方が勝ちという遊びです。これは日本でもおなじみの遊びですね。
 大人の仕事に子どもたちが一緒についていくこともよくあります。男の子は小さな弓と矢を持って父親と一緒に狩りに出かけます。女の子は小さな器を頭にのせて母親と一緒に水汲みへ出かけます。子どもたちは途中で退屈になって遊び出すこともありますが、そのことが大人から咎められることはありません。インディオ社会では高齢者は語り手、若者は家族の養い手、子どもは世界の中心と言われています。ある探険家の話によると、村の火事を引き起こした子どもですら叱られることはなかったといいます。大人は辛抱強く、良いことと悪いことを子どもたちへ教えていき、子どもたちは集会など大人たちのどんな活動にも一緒に参加でき、大人のすることを見て、真似ることで社会性を身につけていきます。
 大人もまた、仕事以外の時間は子どもと一緒に過ごし、友だちとおしゃべりをし、飾り物を作ったり、踊ったり歌ったりしながら過ごします。白人にとっては、働くことはお金を得るための手段です。けれどもインディオにとっての財産は富を蓄えることではなく、豊かな人間性を磨くことです。うそをつかず、けんかをせず、言い争いをせず、周りとの調和を何よりも大切にする心がインディオ社会では尊ばれています。

 インディオの祭りに丸太かつぎ競争というものがあります。幾つかのチームに分かれてリレーを行うのですが、インディオは勝ち負けにはこだわりません。そのため、いつも相手チームと同じペースで走り、全員が同時にゴールします。インディオ社会ではお互いの協力、調和こそが何よりも大切にされるのです。

 インディオ社会の危機

 インディオにとって大地は誰の所有物でもありません。大地は偉大なる母であり、インディオは大地の子だといいます。母である大地が彼らに食物を与え、命を与え、生活に必要なものすべてを与えてくれる、また、大地は死者のすみかであり、すべての魂が宿る所だといいます。大地は生きとし生けるものすべてにとっての場だというインディオの考え方と、富を築くために土地を自分たちの所有物にしようとする白人との間には、今まで絶えず闘いが起こってきました。
 しかしながら、インディオは年の経過とともに、より狭い土地での生活を余儀なくされ、一五〇〇年当初にブラジル全土で約三〇〇万人から五〇〇万人いたインディオは現在約三五万人、同じく約一〇〇〇あった部族は現在約二〇〇部族へと落ち込み、ほとんどの部族が消滅することとなってしまいました。
 インディオの生活は現在も様々な要因によって脅かされています。主なものとしては森林伐採、鉱山採掘、砂金採集、道路建設、水力発電所建設、異常気象による影響、白人によってもたらされる(自然界には存在しない)病気などです。森林が伐採され大型の道路建設が進み、採掘によって川は汚され、そこに生息していた動植物が姿を消し、かつての楽園が破壊され、また今も破壊されつつあります。苦しくなる生活の中で、中には(騙された)インディオ自らがお金のために環境を破壊する行為に加担してしまうこともあるそうです。土地が荒廃し、狩りの獲物が森から姿を消し、自然の中に豊かにあった食物が減り、最近では飢えに苦しむインディオ部族すら出てきています。
 そのような中、人権意識の高まりとともに、インディオ社会も次第に政治への参加の度合いを強めてきました。その願いが明文化されたものの一つが一九八八年に制定されたブラジル憲法です。同憲法は「インディオのすべての土地は五年以内に境界確定すること」と謳いました。インディオの居住地は一九六一年のシングー国立公園以降「インディオ保護区」として境界確定されるようになりました。インディオの生活の場が脅かされないよう措置が図られ、医師、学者、調査員、報道記者など一部の人に対してしか同区への立ち入りが許可されないようになっています。
 しかし、憲法制定から二〇年近くたった今も、インディオ保護区として指定された場所は限られています。インディオの暮らす土地への不法な森林伐採や密猟などが相次ぐだけではなく、鉱脈の調査、道路建設、新たな水力発電所の建設などが連邦政府によって許可され、人権を擁護すべき機関そのものが人権の侵害に加担しているようなこともあるようです。
 かつてはお互いにほとんど接触がなかったインディオ部族同士も最近は連携を強めて協会などを立ち上げ、インディオ社会から国会議員が輩出するに至っています。けれども、道のりはまだまだこれからです。
 そしてまた、経済的観点においても、あるいは環境的観点においても、私たち日本人もインディオの生活と無縁ではありません。私たちの生活私たちがどう暮らすかによって、インディオの生活が豊かになるのか貧しくなるかが決まってくるのです。

(参考文献)
Daniel Munduruku. Histórias de Índio. São Paulo,
Companhia das Letrinhas, 1996

Daniel Munduruku. Coisas de Índio. São Paulo, Callis, 2003

Maurício de Sousa. Manual do Índio do Papa-Capim. São Paulo, Globo, 2002

2008年3月17日 (月)

07年4月号 「多文化共生」について考える

「多文化共生」について考える  

 滋賀県内にはブラジル人学校が少なくとも六つあります。少なくともと言うのは小規模校が自然発生的に生まれているため、私たちが把握していない学校もあるように思えるからなのですが、これらは一般の私塾と同様に何らの財政支援もないため、どこも満足な設備を持っているとは言えません。
 そんな中、あるブラジル人学校の先生が次のようなことを話されました。「学校の中では体を動かすようなスペースがないので学校外の場所でそういった活動をすることになるが、近くの公園は使ったらダメと言われる」「近くにある自動販売機で飲み物を買うのもダメと言われる」。理由は分からないけれども、近隣の人からそんなことを言われるというのです。

  「多文化共生」という言葉

 最近よく「多文化共生」という言葉を耳にするようになりました。この言葉は一九九五年の阪神淡路大震災の際の外国籍者への支援活動の中から生まれた言葉のようですが、今では役所や人権教育機関などでも使われるようになり、社会的に認知される言葉となりつつあります。 この言葉はしばしば「社会」という言葉と結びつき、「多文化共生社会を築きましょう」などと使われますが、これはどのような社会を意味するのでしょうか?
 「共生」とは単に、同じ地域に暮らすという意味ではありません。そうだとすれば、日本ではすでに多様な文化的背景を持った人たちが暮らしているわけですし、「共生社会」はすでに実現していることとなってしまいます。また、「共生」を「共に生きる」というように解釈しても、その意味は、いまひとつよく分かりません。
 そもそも「多文化共生」は造語であって辞書に載っている言葉ではありません。「多文化共生」に似た言葉で多文化主義というのはありますが、これに関しては広辞苑に次のように書かれています。「一つの国・社会に複数の民族・人種などが存在するとき、それらの異なった文化の共存を積極的に認めようとする立場」。だとすると、「多文化共生」についても、むしろ私たちの暮らしの中での関係のあり方を問う言葉だと言えそうです。
 「共生」という単語を調べてみると、実はこれは生物学で使われている言葉だということが分かります。広辞苑には「異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一所に生活している状態」とあります。その例としてよく引き合いに出されるのが、ヤドカリとイソギンチャクの関係です。また、「ヤドカリとイソギンチャク」の関係は小学四年生の教科書(東京書籍)でも題材として取り上げられているということを最近知りました。教科書では「共生」という言葉は使われていませんが、「共生」の意味について非常によく分かると思うので少し引用させていただきます。
 「ヤドカリのなかまで、さんご礁に多いソメンヤドカリは、貝がらにイソギンチャクを付けて歩き回っています。観察してみると、ソメンヤドカリは、たいてい二つから四つのベニヒモイソギンチャクを、貝がらの上に付けています。」……「イソギンチャクのしょく手は、何かがふれるとはりがとび出す仕組みになっています。そのはりで、魚やエビをしびれさせて、えさにするのです。タコや魚はこのことをよく知っていて、イソギンチャクに近づこうとはしません。それで、ヤドカリは、イソギンチャクを自分の貝がらにつけることで、敵から身を守ることができるのです。」……「ヤドカリに付いていないベニヒモイソギンチャクは、ほとんど動きません。ですから、えさになる魚やエビが近くにやってくるのを待つしかありません。しかし、ヤドカリに付いていれば、いろいろな場所に移動することができるので、その結果、えさをとる機会が増えます。また、ヤドカリに付いていると、ヤドカリの食べ残しをもらうこともできるのです。」……「ヤドカリとイソギンチャクは、このように、たがいに助け合って生きているのです。」
 つまり、様々な文化的背景を持った人たちがお互いに尊重し合い、助け合っていく、そのような関係を「多文化共生」といい、その考え方に基づいた社会が「多文化共生社会」だと言えそうです。 「日本人」「外国人」という見方  「皆が仲良く暮らせられればいいのに。」そんな簡単なことであっても、なぜか私たちには難しいことのようです。その原因となるのが「偏見」や「先入観」といったものだからです。
 例えば、ちょうど今から一年程前、長浜で幼稚園児が殺害される事件がありましたが、加害者はたまたま中国籍の人でした。その事件直後、いつものように私が息子を保育園へ迎えに行ったときのことです。同じクラスの女の子が突然、「たけしくん(私の息子の名まえ)のお母さん、外国人なん?」と尋ねてきました。こんな幼い年齢の子どもから「外国人」という言葉を聞いたのは初めてでした。【加害者は中国人】→【中国人は外国人】→【たけしくんのお母さんも外国人】という流れの話がその女の子の家であり、それを聞いていた女の子が言葉の意味もよく分からずに使ったのでしょうが、「日本人」と「外国人」という二者択一的なイメージを植えつけている大人社会が悲しく思えました。
 上の子が保育園に通っていたときも、同じようなことがありました。ある時、うちの子どもが「パパ、ぼくは外国人なん?」と突然尋ねてきたのです。
 「何で?」と尋ねると、「(実習に来ていた中学生の子が)おまえ、外国人やな」と言ってきたそうです。うちの子はそれまで「外国人」という言葉を聞いたことがなかったので「なんでぼくが外国人なん?」と聞き返したところ、「髪の毛の色が違うから外国人や」と言われたというのです。
 けれどもこういった体験は、国際結婚をした家庭ではよくあることのようです。ある家族の人からこんな話を聞いたこともあります。「公園で子どもを遊ばせていたら、その公園に来ていた別の子どもと、うちの子との間にけんかが起こった。でも、相手の子がうちの子を見た途端『なんや、外国人なんか?』と言ってけんかをやめてしまった」。
 人権学習の中では、「外人」という呼び方は差別的な意味があるから「外国人」と呼びましょう、ということが言われています。けれども、私には「外人」も「外国人」も大差がないように思えます。「外国人」という言い方であっても、当事者あるいは当事者家族は時と場合によって、自分たちだけ疎外されているように感じるものだからです。
 保育園で上の子が「外国人」と呼ばれたことがあった時には、私と妻はすぐに保育園へ行き、「今後もし同じようなことを見かけたら、『外国人ではなしに、この子の名まえは〔たけし〕くんだよ』と言ってほしい」と先生にお願いしました。うちの子どもが「自分は周りの子どもたちとは違うんだ」という疎外感を持つことのないようにというだけではなく、「日本人」と「外国人」と人を二つに分けて考えること自体が周りの子どもたちにとっても良くないと思ったためです。
 「日本人」「外国人」という見方ではなしに、一人ひとりが違った名まえや性格を持っているようにすべての人をみてほしい、そんな風に私たちは願っているのです。
 しかし、「日本人」と「外国人」という画一的な見方は教育現場でも広がっているように思います。 ある学校の先生が「うちの学校には外国人の子どもがいないから国際理解教育が難しい」と言っていたのを聞いたことがあります。
 クラスの中に外国籍の子どもがいると、その子の国のことや文化などをその子に発表してもらう授業を行ったりすることもあるようですが、こういった授業はややもすると「日本人」と「外国人」という二者択一的な見方を助長しかねません。

ちがいが尊重される社会へ  

 共生の例として先にあげたヤドカリとイソギンチャクの話を「日本人」と「外国人」とに置き換えてみて、「日本人と外国人がお互いに助け合っていきましょうね」などというと非常に理解しやすいかもしれませんが、「ヤドカリとイソギンチャク」と「日本人と外国人」の関係とは根本的に違います。
 例えば、国際結婚をして生まれた子どもは「日本人」か「外国人」かどちらでしょうか?また、両親が「外国人」であったとしても、生まれてきた子どもが日本で育ち成人になるとすれば、その子は「外国人」として生きるべきなのか、帰化をして「日本人」として生きるべきなのか?
 こうして、多くの子どもたちが自分のアイデンティティについて思い悩むこととなります。  うちの子どもは日本とブラジルとの二重国籍者です。父である私が日本人であるために日本の法律によって子どもが日本の国籍を取得し、母である私の妻がブラジル人であるためにブラジルの法律によって子どもがブラジルの国籍を取得したため、好むと好まざるに関わらず結果的に二重国籍となったのです。まさに「ヤドカリ」であると同時に「イソギンチャク」でもあるような存在です。
 そのため、例えば日本からブラジルへ行く際には、子どもは日本を出国する際には日本のパスポートを持って「日本人」として、ブラジルへ入国する際にはブラジルのパスポートを持って「ブラジル人」としてその地を踏むというおかしな現象も出てきています。
 つまり、はっきりと両者が異質なものである「ヤドカリ」「イソギンチャク」との関係と、「日本人」「外国人」との関係とは同一に語られるべきものではなく、「多文化共生社会」という考え方の中でも「日本人」と「外国人」とが対比的に捉えられるべきものではありません。 考えてみると、「多文化共生」という表現を用いる時、Aという文化とBという文化は異質なものだということが前提としてあります。けれども、私たちの文化は複雑に織り成され、同じ国や同じ民族であってもそこでの価値観は多岐に渡っています。十人十色という言葉がありますが、「あゆみちゃん」、「パウロくん」、「ただしくん」、「ローザちゃん」、それぞれが固有の名まえを持っているのと同様、私たちは六五億人六五億色です。その一人ひとりが違った個性を持っているし、それをわざわざ「Aという文化を持っている人」「Bという文化を持っている人」というように分けて考える必要もないと思うのです。
 むしろ問題なのは、今の社会が多様なちがいを受け入れているかどうかです。一方が他方に考え方を押し付けているようなことは起こっていないでしょうか? 
 「ここではこうしないとダメ」といった考えは、結局、私たちの暮らしを息苦しくさせるだけのものです。心の面でも制度の面でも、多様なちがいに対応できる社会になってほしいものです。

2008年2月 9日 (土)

07年2月号 不就学外国人児童生徒支援事業の取り組み

不就学外国人児童生徒支援事業の取り組み

 この原稿を書いている年末年始(一二月二九日~三一日・一月四日~七日)、私たちインターナショナル滋賀は湖南市で「不就学外国人児童生徒(子ども)実態調査」を行っています。

 訪問する子どもの総数は七四人(対象宅は六六戸)。電話番号などは事前にほとんど分からないため、何度訪問しても留守だったり、戸別訪問が深夜まで及んだりと、活動はなかなか思うようにはかどっていませんが、今回はこの調査をすることとなったいきさつについて述べたいと思います。

不就学に関する現状

 外国籍の子どもたちの不就学に関しては、二〇〇五年六月号と二〇〇五年八月号の『じんけん』でも触れていますので詳細はそちらをご覧いただくとして、ここでは現状について簡単に触れるだけとします。

 日本国憲法第二六条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とあります。しかし、日本国民ではない外国籍の子どもたちの場合、この義務規定は適用されず、日本政府も「我が国に在住する外国籍又は無国籍の児童には就学義務はないが希望すれば、同様の機会が与えられている」という見解を示しているのみです。

 その結果、本人や家族が希望しなければ小中学校就学年齢にありながら学習機会を失ってしまう事態、すなわち「不就学」が生じているのです。

 これに対して私たちは、国籍に関係なくすべての子どもたちに学習機会を提供すべきだという立場をとっています。

 二〇〇六年一二月三〇日付の中日新聞は、岐阜県内の人材派遣会社二社が、一三~一五歳の日系ブラジル人男女一二人を工場で働かせていたとして、労働基準監督署から労働基準法違反として是正勧告を受けたと報じました。子どもたちは「学校の日本語の授業が理解できなくてつまらない。家計を助けたかった」と言っていたといいます。

 児童労働は遠い海外での出来事ではなくて、まさに私たちの身の周りで起こっていることなのです。滋賀県においても不就学の状況に関しては、二〇〇五年四月六日付の毎日新聞・滋賀版(『日系三世のブラジル人少女、中学中退-工場で働き家計を援助』)や二〇〇五年一一月一四日付の京都新聞・滋賀版(『見えない進路 生活費助ける中学生 授業ほとんど分からず』)が記事を報じています。

 「学校全体が嫌い。外国人に『アホ、ボケ』とか言うねん。」「目の色や髪の毛をからかう生徒の声に心を痛めた」「中学校に、心を許せる日本人の友達はいない」「『外国人は帰れ』と言われることもある」、そんな状況の中、子どもたちは時に仕事でくたびれて帰ってくる両親に代わって掃除や洗濯、夕食の支度を行い、「お金が必要。お母さんを助けなくちゃいけないの」などと、家計を助けるために働き始めるようになると記事は述べています。

 保護者が悪いとか学校が悪いとかいうことではなく、子どもたちが今の社会の犠牲になっている現実があり、だからこそ私たちは、不就学の状況を放置しておくことは子どもたちに対する重大な人権侵害だと考えているのです。

 

事業受託にいたるまで

 不就学の状況は中学年齢の子どもだけに限ったことではありません。「たとえ日本政府がどのような見解を持とうとも、子どもたちの現実をしっかり見て、しかるべき対策を一刻も早く講じてほしい」、不就学実態調査を滋賀県で行ってほしいという私たちの願いはそのようなところからきています。

 しかし「予算がない」といった理由や、県へ話にいけば「それは市町で取り組むべき課題」、市町へ行けば「それは県で取り組むべき課題」などといった理由で、私たちの願いはこれまで叶えられることはありませんでした。

 そのような中、外国籍の人たちの労働、医療、教育などの生活課題の改善に向け、私たちは県内のネットワークづくりの必要性を痛感し、二〇〇二年一二月にインターナショナル滋賀の準備委員会を発足、二〇〇四年四月に任意団体として正式にスタートしました。

 不就学に関する現状についても当初から県内各地での情報交換を行い、二〇〇五年五月には長浜市で大学の研究協力という形で調査に参加。ブラジル人が集住しているアパートなどを一戸ずつ訪問し、一四歳でありながら平日はずっと家で家事を行っているという子どもの保護者から、「日本の学校に入れるのが怖い。周囲のブラジル人から、日本の学校に行くとひどい目にあうと聞いている。だから娘を学校には通わせていない」などといった声を聞いていました(詳細は『じんけん』二〇〇五年八月号)。

 これらの情報交換や独自調査などを踏まえ、二〇〇五年六月には近江八幡市で、「外国籍の子どもの教育環境」と題して人権研修会を開催。「外国人の子どもの教育環境に関する実態調査」として本格的な戸別訪問調査を行われた岐阜県可児市から講師の方をお招きし、戸別訪問調査の必要性や調査を通じて見えてきた子どもたちの現状などについて、さらに認識を深めることができました。

一方、文部科学省は平成一七年(二〇〇五年)度に「不就学外国人児童生徒支援事業」を新規創設。「①就学実態の把握及び不就学の要因分析、②就学を支援するための取組を実施する」ことを目的とした施策を開始し、初年度には、群馬県太田市、長野県飯田市、静岡県掛川市、静岡県浜松市、静岡県富士市、岐阜県美濃加茂市、愛知県岡崎市、三重県四日市市、大阪市、神戸市、大阪府豊中市、兵庫県姫路市の一二自治体が選定されました。

この時滋賀県では残念ながら受託自治体がありませんでしたが、同年八月五日に行われた私たちインターナショナル滋賀と県教育委員会との話し合いの場の中で、次年度は事業を受託できるよう県として前向きに取り組む方向性が示されました。

 私たちNPOは不就学に関する情報交換を進めるとともに、教育に関する新たなネットワーク組織「外国にルーツを持つ子どもの教育と人権ネットワーク滋賀(以下、略して「がるきょんネット」という)」を二〇〇六年二月一六日に結成(※現在の構成団体はインターナショナル滋賀、近江八幡外国籍市民ネットワーク、クルーベ・クルミン、GRUPO IPE、子どもくらぶ「たんぽポ」、NIBRA在日外国人教育を考える会滋賀、ハムケモイジャ、ワールド・アミーゴ・クラブ)。教育課題に対して協同して取り組むことや、外国籍の子どもの就学状況等について各市町教育委員会への聞き取り調査を行うことなどを決定しました。

 二〇〇六年三月二八日には、がるきょんネットとして初めて滋賀県教育委員会と会合。外国にルーツをもつ子どもの教育状況改善へ向けた抜本的な取り組みについての意見交換の一つとして、不就学状況の調査について協働で取り組むことの重要性を認識しあうことができました。

事業受託から戸別訪問調査まで

 六月には不就学外国人児童生徒支援事業を滋賀県が新規受託(同年、その他の新規受託自治体は愛知県豊田市のみ)。文部科学省の同事業の要綱では実施主体は市町村教育委員会となっていましたが、「外国籍住民が集住している地域に限定せず県全体として問題への取り組みを行ってほしい」という私たちの願いに応える形で、県教育委員会が文科省と折衝され、滋賀県に関しては唯一、県レベルでの事業受託が認められることとなりました。

 またそれに先駆け、五月二六日の私たちと県教育委員会との話し合いの中で、不就学調査や小中学校へ入る前の初期的な日本語学習などを行っておられる「ばら教室KANI」など先駆的な取り組みをしておられる岐阜県可児市への視察の話が持ち上がり、六月二六日には県教育委員会、県国際課、県国際協会、そして私たち合同で可児市へ出かけ、研修機会を持つことができました。

 八月四日に行った県教育委員会とがるきょんネットとの会議では、今回の調査は就学支援に向けた取り組みの一環として行うものだという共通認識を再確認した後、①何らかの学校に在籍しているかどうか、②在籍しているとすればどこの市町の学校に在籍しているか、③それはどのような種類の学校か(例:日本の公立学校、外国人学校など)の三つの質問に絞った調査票を多言語で作成し、県内全域の各市町教育委員会を通じて予備調査を行うことが決まりました。

 八月の第二週には各市町教育委員会へ同調査票の配布が終了し、九月の第二週には各市町教育委員会から県教育委員会への報告をしていただくこととなっていましたが、各市町での予備調査が思うように進まなかったため、次に県教育委員会と私たちとの間で話し合いの場を設けられたのは一〇月二〇日と、大幅に当初予定よりずれ込んでしまいました。

 その会議開催への準備に平行して、文部科学省から送付された「不就学外国人児童生徒(子ども)実態調査項目」に基づき、①外国人登録から子どもの氏名、国籍、生年月日、住所などを拾い出すための「個人登録票(1枚目)」、②個人登録票(1枚目)に基づいて戸別訪問調査を行い、訪問日時、居住実態などを記入する「個人登録票(2枚目)」、③戸別訪問によって聞き取りを行い、その内容を記入する「質問票(全部で4頁)」の三種類の記入用紙を作成しました。

 この時点では、各市町から寄せられた報告をベースに県内全域での戸別訪問調査の可能性も検討していました。しかし、九月一日時点での小中学校就学年齢の外国人登録者数一五八五人(在日韓国・朝鮮人児童生徒を除く)のうち「学区内に住所があるが公立学校に在籍していない人数」はその約四割にあたる六三〇人、また、再調査が必要な子どもの総数は二一八人、調査区域は一三市町にまたがるという結果が出たため、県内全域での調査を断念し、地域を絞って戸別訪問調査を行うこととなりました。

 いざ戸別訪問調査を行おうとなると、個人の情報公開や、事前の資料作成、調査の趣旨理解と協力体制の確保など、地元教育委員会の全面的なバックアップなしには行えません。これに関しては県教育委員会が市町教育委員会と個別に交渉され、最終的に湖南市で集中的に戸別訪問調査を行うことが決まりました。

 また実際の戸別訪問に関しては、インターナショナル滋賀が窓口となってスタッフの取りまとめを行うこととなり、一二月六日には県教育委員会、湖南市教育委員会との打ち合わせ会議を行いました。

その会議を受けてタイムスケジュールなどを検討していましたが、調査の対象宅の大半である南米国籍の人たちに関しては、残業時間が長いために毎日の帰宅時間が遅かったり勤務形態も不規則だったりという傾向があることを考え、年末年始を中心に戸別訪問調査を行うことを県・湖南市教育委員会に打診することとしました。

年末でお互いに忙しい中で急遽このような計画を考えましたが、年末年始の調査時の拠点確保(湖南市役所庁舎内の会議室開放)、同期間内における職員の出勤、迅速な決裁など多くの便宜を図っていただくことができ、一二月二七日には最終の打ち合わせを三者(県・市教育委員会と私たち)で持つことができました。

現在行っている調査の中では、中学校就学年齢に限らず、小学校就学年齢であっても全く就学していない子どものいることが分かりました。また、調査を通じて、保護者の方々の就労状況や、ブラジル人学校(※法的には「学校」とはみなされていません)が果たしている役割の重要性についても再認識させられました。調査結果については、機会があればここでもいつか書かせていただきますが、子どもたちの教育状況の改善が一刻も早く、全県的に行われることを望んでやみません。
 
  松井 高
 

07年2月号 不就学外国人児童生徒支援事業の取り組み

不就学外国人児童生徒支援事業の取り組み

 この原稿を書いている年末年始(一二月二九日~三一日・一月四日~七日)、私たちインターナショナル滋賀は湖南市で「不就学外国人児童生徒(子ども)実態調査」を行っています。

 訪問する子どもの総数は七四人(対象宅は六六戸)。電話番号などは事前にほとんど分からないため、何度訪問しても留守だったり、戸別訪問が深夜まで及んだりと、活動はなかなか思うようにはかどっていませんが、今回はこの調査をすることとなったいきさつについて述べたいと思います。

不就学に関する現状

 外国籍の子どもたちの不就学に関しては、二〇〇五年六月号と二〇〇五年八月号の『じんけん』でも触れていますので詳細はそちらをご覧いただくとして、ここでは現状について簡単に触れるだけとします。

 日本国憲法第二六条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とあります。しかし、日本国民ではない外国籍の子どもたちの場合、この義務規定は適用されず、日本政府も「我が国に在住する外国籍又は無国籍の児童には就学義務はないが希望すれば、同様の機会が与えられている」という見解を示しているのみです。

 その結果、本人や家族が希望しなければ小中学校就学年齢にありながら学習機会を失ってしまう事態、すなわち「不就学」が生じているのです。

 これに対して私たちは、国籍に関係なくすべての子どもたちに学習機会を提供すべきだという立場をとっています。

 二〇〇六年一二月三〇日付の中日新聞は、岐阜県内の人材派遣会社二社が、一三~一五歳の日系ブラジル人男女一二人を工場で働かせていたとして、労働基準監督署から労働基準法違反として是正勧告を受けたと報じました。子どもたちは「学校の日本語の授業が理解できなくてつまらない。家計を助けたかった」と言っていたといいます。

 児童労働は遠い海外での出来事ではなくて、まさに私たちの身の周りで起こっていることなのです。滋賀県においても不就学の状況に関しては、二〇〇五年四月六日付の毎日新聞・滋賀版(『日系三世のブラジル人少女、中学中退-工場で働き家計を援助』)や二〇〇五年一一月一四日付の京都新聞・滋賀版(『見えない進路 生活費助ける中学生 授業ほとんど分からず』)が記事を報じています。

 「学校全体が嫌い。外国人に『アホ、ボケ』とか言うねん。」「目の色や髪の毛をからかう生徒の声に心を痛めた」「中学校に、心を許せる日本人の友達はいない」「『外国人は帰れ』と言われることもある」、そんな状況の中、子どもたちは時に仕事でくたびれて帰ってくる両親に代わって掃除や洗濯、夕食の支度を行い、「お金が必要。お母さんを助けなくちゃいけないの」などと、家計を助けるために働き始めるようになると記事は述べています。

 保護者が悪いとか学校が悪いとかいうことではなく、子どもたちが今の社会の犠牲になっている現実があり、だからこそ私たちは、不就学の状況を放置しておくことは子どもたちに対する重大な人権侵害だと考えているのです。

 

事業受託にいたるまで

 不就学の状況は中学年齢の子どもだけに限ったことではありません。「たとえ日本政府がどのような見解を持とうとも、子どもたちの現実をしっかり見て、しかるべき対策を一刻も早く講じてほしい」、不就学実態調査を滋賀県で行ってほしいという私たちの願いはそのようなところからきています。

 しかし「予算がない」といった理由や、県へ話にいけば「それは市町で取り組むべき課題」、市町へ行けば「それは県で取り組むべき課題」などといった理由で、私たちの願いはこれまで叶えられることはありませんでした。

 そのような中、外国籍の人たちの労働、医療、教育などの生活課題の改善に向け、私たちは県内のネットワークづくりの必要性を痛感し、二〇〇二年一二月にインターナショナル滋賀の準備委員会を発足、二〇〇四年四月に任意団体として正式にスタートしました。

 不就学に関する現状についても当初から県内各地での情報交換を行い、二〇〇五年五月には長浜市で大学の研究協力という形で調査に参加。ブラジル人が集住しているアパートなどを一戸ずつ訪問し、一四歳でありながら平日はずっと家で家事を行っているという子どもの保護者から、「日本の学校に入れるのが怖い。周囲のブラジル人から、日本の学校に行くとひどい目にあうと聞いている。だから娘を学校には通わせていない」などといった声を聞いていました(詳細は『じんけん』二〇〇五年八月号)。

 これらの情報交換や独自調査などを踏まえ、二〇〇五年六月には近江八幡市で、「外国籍の子どもの教育環境」と題して人権研修会を開催。「外国人の子どもの教育環境に関する実態調査」として本格的な戸別訪問調査を行われた岐阜県可児市から講師の方をお招きし、戸別訪問調査の必要性や調査を通じて見えてきた子どもたちの現状などについて、さらに認識を深めることができました。

一方、文部科学省は平成一七年(二〇〇五年)度に「不就学外国人児童生徒支援事業」を新規創設。「①就学実態の把握及び不就学の要因分析、②就学を支援するための取組を実施する」ことを目的とした施策を開始し、初年度には、群馬県太田市、長野県飯田市、静岡県掛川市、静岡県浜松市、静岡県富士市、岐阜県美濃加茂市、愛知県岡崎市、三重県四日市市、大阪市、神戸市、大阪府豊中市、兵庫県姫路市の一二自治体が選定されました。

この時滋賀県では残念ながら受託自治体がありませんでしたが、同年八月五日に行われた私たちインターナショナル滋賀と県教育委員会との話し合いの場の中で、次年度は事業を受託できるよう県として前向きに取り組む方向性が示されました。

 私たちNPOは不就学に関する情報交換を進めるとともに、教育に関する新たなネットワーク組織「外国にルーツを持つ子どもの教育と人権ネットワーク滋賀(以下、略して「がるきょんネット」という)」を二〇〇六年二月一六日に結成(※現在の構成団体はインターナショナル滋賀、近江八幡外国籍市民ネットワーク、クルーベ・クルミン、GRUPO IPE、子どもくらぶ「たんぽポ」、NIBRA在日外国人教育を考える会滋賀、ハムケモイジャ、ワールド・アミーゴ・クラブ)。教育課題に対して協同して取り組むことや、外国籍の子どもの就学状況等について各市町教育委員会への聞き取り調査を行うことなどを決定しました。

 二〇〇六年三月二八日には、がるきょんネットとして初めて滋賀県教育委員会と会合。外国にルーツをもつ子どもの教育状況改善へ向けた抜本的な取り組みについての意見交換の一つとして、不就学状況の調査について協働で取り組むことの重要性を認識しあうことができました。

事業受託から戸別訪問調査まで

 六月には不就学外国人児童生徒支援事業を滋賀県が新規受託(同年、その他の新規受託自治体は愛知県豊田市のみ)。文部科学省の同事業の要綱では実施主体は市町村教育委員会となっていましたが、「外国籍住民が集住している地域に限定せず県全体として問題への取り組みを行ってほしい」という私たちの願いに応える形で、県教育委員会が文科省と折衝され、滋賀県に関しては唯一、県レベルでの事業受託が認められることとなりました。

 またそれに先駆け、五月二六日の私たちと県教育委員会との話し合いの中で、不就学調査や小中学校へ入る前の初期的な日本語学習などを行っておられる「ばら教室KANI」など先駆的な取り組みをしておられる岐阜県可児市への視察の話が持ち上がり、六月二六日には県教育委員会、県国際課、県国際協会、そして私たち合同で可児市へ出かけ、研修機会を持つことができました。

 八月四日に行った県教育委員会とがるきょんネットとの会議では、今回の調査は就学支援に向けた取り組みの一環として行うものだという共通認識を再確認した後、①何らかの学校に在籍しているかどうか、②在籍しているとすればどこの市町の学校に在籍しているか、③それはどのような種類の学校か(例:日本の公立学校、外国人学校など)の三つの質問に絞った調査票を多言語で作成し、県内全域の各市町教育委員会を通じて予備調査を行うことが決まりました。

 八月の第二週には各市町教育委員会へ同調査票の配布が終了し、九月の第二週には各市町教育委員会から県教育委員会への報告をしていただくこととなっていましたが、各市町での予備調査が思うように進まなかったため、次に県教育委員会と私たちとの間で話し合いの場を設けられたのは一〇月二〇日と、大幅に当初予定よりずれ込んでしまいました。

 その会議開催への準備に平行して、文部科学省から送付された「不就学外国人児童生徒(子ども)実態調査項目」に基づき、①外国人登録から子どもの氏名、国籍、生年月日、住所などを拾い出すための「個人登録票(1枚目)」、②個人登録票(1枚目)に基づいて戸別訪問調査を行い、訪問日時、居住実態などを記入する「個人登録票(2枚目)」、③戸別訪問によって聞き取りを行い、その内容を記入する「質問票(全部で4頁)」の三種類の記入用紙を作成しました。

 この時点では、各市町から寄せられた報告をベースに県内全域での戸別訪問調査の可能性も検討していました。しかし、九月一日時点での小中学校就学年齢の外国人登録者数一五八五人(在日韓国・朝鮮人児童生徒を除く)のうち「学区内に住所があるが公立学校に在籍していない人数」はその約四割にあたる六三〇人、また、再調査が必要な子どもの総数は二一八人、調査区域は一三市町にまたがるという結果が出たため、県内全域での調査を断念し、地域を絞って戸別訪問調査を行うこととなりました。

 いざ戸別訪問調査を行おうとなると、個人の情報公開や、事前の資料作成、調査の趣旨理解と協力体制の確保など、地元教育委員会の全面的なバックアップなしには行えません。これに関しては県教育委員会が市町教育委員会と個別に交渉され、最終的に湖南市で集中的に戸別訪問調査を行うことが決まりました。

 また実際の戸別訪問に関しては、インターナショナル滋賀が窓口となってスタッフの取りまとめを行うこととなり、一二月六日には県教育委員会、湖南市教育委員会との打ち合わせ会議を行いました。

その会議を受けてタイムスケジュールなどを検討していましたが、調査の対象宅の大半である南米国籍の人たちに関しては、残業時間が長いために毎日の帰宅時間が遅かったり勤務形態も不規則だったりという傾向があることを考え、年末年始を中心に戸別訪問調査を行うことを県・湖南市教育委員会に打診することとしました。

年末でお互いに忙しい中で急遽このような計画を考えましたが、年末年始の調査時の拠点確保(湖南市役所庁舎内の会議室開放)、同期間内における職員の出勤、迅速な決裁など多くの便宜を図っていただくことができ、一二月二七日には最終の打ち合わせを三者(県・市教育委員会と私たち)で持つことができました。

現在行っている調査の中では、中学校就学年齢に限らず、小学校就学年齢であっても全く就学していない子どものいることが分かりました。また、調査を通じて、保護者の方々の就労状況や、ブラジル人学校(※法的には「学校」とはみなされていません)が果たしている役割の重要性についても再認識させられました。調査結果については、機会があればここでもいつか書かせていただきますが、子どもたちの教育状況の改善が一刻も早く、全県的に行われることを望んでやみません。
 
  松井 高
 

06年12月号 ブラジルの子どもたちは今

ブラジルの子どもたちは今

 日本政府は平成一八年四月二八日に教育基本法の全部改正案を閣議決定し、国会に提出しました。

 時代とともに教育の果たす役割が少しずつ変化し、それに即した形で法律を改正する必要があるのは言うまでもありません。しかしながら、今回の改正案では現行法よりもさらに国家至上主義が強められ、国際的視野に立てる人材の育成や、国内で増大している外国籍や重国籍の人たちなどへの配慮もほとんど感じられず、国際化という観点からは時代に逆行したものとなっています。

 私たちが今こうしている間にも、世界では様々なことが起こっています。世界で起こっている問題を自分自身の問題として捉え、一人ひとりにできることを考える、そのような姿勢こそが今私たちには必要とされています。

 そこで今号では、ブラジルの子どもたちの教育を取り巻く状況について取り上げたいと思います。

 

三つの社会階層とストリート・チルドレン

 今回で私の連載は一五回目になりますが、私は初回(『じんけん』二〇〇四年六月号)、『イラクでの日本人人質事件と命の重み』というタイトルでブラジルでのストリート・チルドレンについて触れました。

 ストリート・チルドレンが生み出される背景には、ブラジル社会の貧困問題があります。貧困は時として家族関係をも崩壊させてしまいます。家庭内暴力、性的虐待、離婚、両親の不在、就学の機会にも恵まれない状況が、子どもを路上生活へと向かわせるのです。

 ブラジルは差別のない国だと言われることがあります。ブラジルはインディオを除けば世界のありとあらゆる国から移住してきた人たちによって成り立っているため、多数派対少数派というような構造からくる外国人差別はほとんどないと思います。けれども、富裕層、中流層、貧困層という社会階層がはっきりと分かれており、街の中では富める者と貧しい者との棲み分けが自然とできてしまっています。

 例えば、お金持ちの人たちのほとんどはショッピングセンターで買い物をします。リオ・デ・ジャネイロのショッピングセンターでは、すべての出入口に警備員や警察官などを配置し、身なりの貧しい人がセンター内に入らないようにガードをしていました。

 ブラジルの商品流通ルートも明らかに二つ存在します。一つはメーカーにより標準化された品質を持つ商品で、それらはショッピングセンターや代理店などで販売されます。もう一つは手工業により生産された製品で、メルカードと呼ばれる商業エリアに持ち込まれて売買されるのですが、価格が非常に安いとはいえ、粗悪品も多く品質が安定していません。そして、ここへ買い物に来る人の客層は、ショッピングセンターとは明らかに違います。ショッピングセンターには白人が多く、メルカードには黒人が多いのも一つの特徴です。

 バスについても、エアコンのない安い運賃のものと、エアコン付で快適な座席となっている高い運賃のものとがあり、所得階層による棲み分けが自然となされています。また富裕層の人が住む地域の中には、その地域全体が高い壁に囲まれ、地域の人専用のゲートで警備員の許可を通じてしか出入りできないようになっている所もあります。

 そのような社会の中で、ストリート・チルドレンは治安を脅かす存在のように思われているところもあるのですが、彼らは社会の犠牲者だとも言えます。時には人身売買、売買春、臓器売買の犠牲となり、ドラッグが蔓延する環境の中で麻薬の運び屋として利用されたり、銃器によって命を落としたりすることもあります。特にファベーラと呼ばれるスラム街の中には、常に生と死が隣り合わせとなっている地域もあります。

IBGE(ブラジル地理統計院)の統計によれば、殺人の発生率は一九八〇年から二〇〇〇年までの間に一〇万人当たり一一・七人から二七人へと二倍以上の伸びを示しました。中でも、青少年による殺人の割合が非常に高く、一五歳から二四歳までの年齢の男性に限れば、二〇〇〇年で同年齢層の男性による殺人発生率は一〇万人あたり九五・六人となっています。またその内、銃器による殺害は七一・七人と約七五%を占め、青少年の銃器犯罪が氾濫している現状がうかがえます。

 銃器などによる殺害が若年男性で多いことは、ブラジルの男女構成比率をいびつなものにしています。二〇〇四年に行われた国勢調査(Pesquisa Nacional por Amostra de Domicílios)によれば、〇歳から四歳までの男女比は五一・〇対四九・〇ですが、二〇~二四歳では男女比率が逆転し、四九・三対五〇・七という割合にまで達しています(表1)

家計を助ける子どもたちと所得格差

 就学機会のない子どもたちの中には、家計を助けるために就労しているケースも多くあります。私がブラジルへ行った時にも、街中で小中学生位の年齢の子どもたちが重たい荷物を背負って物売りをしたり、新聞を売ったり、信号などで車が止まるたびに走っていって窓をふいたりしている姿を見かけました。こういった子どもたちの家族の収入は極端に少ない場合がほとんどで、IBGEの発表によれば、働く子どもたちの家計の一五・五%は、そういった子どもたちの収入によってまかなわれているという結果が出ています。

 これからの世界経済の牽引力となる諸国は、ブラジル、ロシア、インド及び中国の頭文字をとってBRICs(ブリックス)と呼ばれています。二〇〇五年のブラジルのGDPは、ついに韓国やメキシコを超え、世界ランキングで一一位となりました。(財)国際貿易投資研究所(http://www.iti.or.jp)が発表した国際比較統計に基づきますと、ブラジルにおけるGDPの伸び率は二〇〇三年から二〇〇四年にかけては一九・四%、二〇〇四年から二〇〇五年にかけては三一・八%と世界各国の中でも群を抜いています。

 堅調な鉱工業生産や小売販売額、輸出入の拡大、インフレ抑制の成功、対外債務の減少など、ブラジルのファンダメンタルズ(一国の経済状態を示す基礎的指標)は特にここ数年で劇的に改善してきました。

 しかし急速に経済的発展を遂げる国、鉱物資源や農産物に恵まれた豊かな国というイメージとは裏腹に、大多数の国民は困窮生活を余儀なくされています。それらの富がごく一部の人たちに集中し、著しい社会的不平等をもたらしているためです。

 二〇〇二年から二〇〇三年に行われた家計調査(POF)によりますと、一世帯あたりの収入の全国平均は約一七九〇レアル(約九万八千円)となっています。しかし、全国平均の約四分の一以下、四〇〇レアル(約二万二千円)以下が全人口の約一五%を占め、平均よりはるかに低い一〇〇〇レアル(約五万五千円)以下ですらすでに全人口の過半数を占めいています(表二)。一方、富裕層である六〇〇〇レアル(約三三万円)超の所得を有する人口も全人口の五%と、決して少ない数とは言えません。また貧困層と富裕層の平均所得を見るとさらに驚かされます。月四〇〇レアル以下の世帯の平均収入二六〇レアル(約一万四千円)に対し、月六〇〇〇レアル超の世帯の平均収入は一〇、八七九レアル(約五九万八千円)と、その差は実に四二倍です。

さらに地域間格差も非常に大きく、市街地域と農村地域との所得格差は二倍以上、またブラジルは北部、北東部、南東部、南部、中西部の五地域に大別されていますが、特に北東部の農村地域と南東部の市街地域との平均所得は四倍以上にもなっています(表三)。そのため、生活の糧を求める農村地域の人たちが市街地域へ流入し、ファベーラと呼ばれるスラム街が増え続けています。けれども、流入人口を吸収するだけの労働力は都市部といえども生み出されておらず、六大都市の失業率は二〇〇六年に入った現在も依然一〇%以上で推移しています。

 これらの状況の中で、新たな貧困が生み出され、社会の中に厳然として存在する社会階層が、次の子どもの世代へと受け継がれてしまうという悪循環もあります。

 例えば、月あたり収入が四〇〇レアル以下の世帯における消費額を見ると、住居関連費三七・一五%と食費三二・六八%とをあわせただけで総額の七〇%を占め、それに交通費と衣類、保健医療、衛生費を加えると家計支出の九〇%にも達します。これに諸費を加えると余裕資金など全く残らず、月あたりの教育費の平均はわずか〇・七八レアル(約四三円)という状況になるのです。これでは仮に学校へ通えても学用品すら買うお金はありません。

現政権と所得移転プログラム

 固定化しつつある貧困階層に一筋の光をあてた政策は、今年一〇月二九日に六〇・八二%もの得票率を得て再選を決めたルーラ大統領でした。

ルーラ大統領は、飢餓状態にある国民に必要とされる食料を得る権利を保障することを目指し、就任後すぐにフォーミ・ゼロ(Fome Zero)と呼ばれる飢餓ゼロ対策に着手しました。その一環として二〇〇四年一月に創設された家計支援プログラムはボウサ・ファミーリア(Bolsa Família)制度と呼ばれ、貧困世帯へ政府からの収入保障を行うことによって、貧困の軽減、保健・教育分野における基本的社会的権利の擁護、貧困の連鎖の断ち切りを行おうという取り組みを始めました。この対象となるのは約一一一〇万世帯。非常に大規模な所得移転プログラムです。

 各家庭への手当額は、家族一人あたりの収入や子どもの数によって原則として一五レアルから九五レアル(約八二五円~五、二二五円)となっています。そして、この手当の給付にあたっては、保護者が子どもを就学させること、予防接種を受けさせることなどを条件に盛り込みました。この制度により、これまで経済的理由などから働かざるを得なかった子どもたちに就学の道が開けました。また、一定の収入保障を行ったことによって、貧困層の家計の消費が拡大していることも報告されています。

 しかしながら、二〇〇四年の調査では五歳から九歳の子どもたち二五万人以上が、一〇歳から一五歳までの二五二万人以上が就労をしていると報告されています(表四)。今もなお数え切れないほど多くの子どもたちが厳しい状況に置かれており、さらなる取り組みが必要とされています。

ブラジルでは大規模な所得移転プログラムによって格差を減少させる方向での取り組みが始まりました。それは格差社会の中では、貧しい者は貧困の連鎖から抜け出せなくなるという反省から生じたものでした。

教育の自由化は時として学校の差別化も進めることとなります。ブラジルでは貧しい子どもたちは公立学校へ通わざるを得ないのですが、公立学校への教育予算が少ないために、教員の質や教材内容に私立学校との格差が生じ、両者の教育レベルを異なったものにしているという問題があります。そして、どの学校を卒業したかによって、社会に出た際の待遇は異なります。格差社会の恐ろしさは、結果的にチャンスが平等でなくなってしまうことです。

私たちが世界の現状や、これまでの歴史から学ぶことは数多くあります。けれどもそれらは自国の発展という狭い枠ではなく、世界の平和という普遍的な目的にこそ役立てられるべきものです。私たちの目には見えませんが、こうしている間にも世界は同時に回っているのです。

      松井高 

2008年2月 7日 (木)

06年10月号 外国籍の子どもたちの教育状況をどのように改善するか?

外国籍の子どもたちの教育状況をどのように改善するか?

日本国憲法第二六条には「教育を受ける権利」と「普通教育を受けさせる義務」が謳われています。しかしながら「外国籍又は無国籍の児童には就学義務がない」(政府見解)ため、小中学校就学年齢にありながら学籍を有さない「不就学」の子どもたちの問題は、ごく最近までほとんど何の対策もとられてきませんでした。日本人には「不登校」はあっても「不就学」はありません。そのため、外国籍の子どもたちに特有のこの現象は、重大な人権侵害にあたるのではないかという認識を私たちは持っています。

また、公立の小中学校へ在籍している外国籍の子ども(以下、無国籍の子どもたちを含むものとする)の状況についてもほとんど何も分からないままです。外国籍の子どもたちがはたして毎日学校へ通えているのか、欠席がちとなっているのか、長期欠席となっているのか、その理由は何なのか、さらに中学校卒業後の進学者数やその進路先、就職者数等についても全国的に何も把握されていないのです。

 滋賀県においても外国籍の子どもたちの現状はほとんど分からないままですが、断片的に公表されている数値もあります。

「不就学」の子どもの状況については、二〇〇三年九月と二〇〇五年一二月の県議会答弁からその問題の一端を推し測ることができます。

小学校就学年齢相当者数

小学校在籍者数

中学校就学年齢相当者数

中学校在籍者数

2003

984

727

516

350

2005

1,304

827

548

306

 「不就学」という言葉は全国的にもはっきりした定義がありませんが、小中学校就学年齢にありながら学校へ在籍していない状況を仮に不就学と呼ぶならば、滋賀県での不就学者数は小学校就学年齢で二〇〇三年の二五七人から二〇〇五年には四七七人へと八六%増加、中学校就学年齢で同一六六人から二四二人へと四六%も増加し、二〇〇五年時点では小学校年齢で三人に一人以上が不就学、中学校年齢ではほぼ二人に一人が不就学という驚くべき結果です。

滋賀県の小学校年齢における不就学率  
 
全体1304

不就学者477

200512月県議会答弁による)

滋賀県の中学年齢における不就学率      
  
全体548

不就学者242

200512月県議会答弁による)

 もちろん、この数値は学習機会を持たない子どもたちの現状をそのまま反映したものではありません。楽観的にみればほとんどの子どもたちはどこかで何らかの学習機会を持っているのかもしれません。しかしながら、これらの子どもたちが今どうしているのか全く把握されていないことは大きな問題です。

 その他、学籍を有している外国籍の子どもたちに関する通学状況(長期欠席者の数など)、進学者数や就職者数については、滋賀県では数値として公表されたものはありませんが、日本語指導が必要な外国籍の生徒のうち今年二〇〇六年三月に中学校を卒業した者は四六人、高校へ進学したのは一八人という数字だけは発表されています。

平成17年度・滋賀県の小中学校における在籍人数

小学校

中学校

児童数

学校数

生徒数

学校数

505

79

171

41

 

平成17年度・滋賀県における母語別児童生徒数の内訳

(日本語指導の必要な児童生徒数:人)

ポルトガル語

中国語

スペイン語

その他

438

32

187

39

696

 

 

 学校基本調査によりますと、中学校卒業者のうち「高等学校等進学者」の割合は約九八%ですから、「日本語指導が必要な外国籍の生徒」の進学率三九%との格差は歴然としています。来日間もない子どもたちにとって、あるいは小中学校在籍期間に学習支援が十分でなかった子どもたちにとってはきわめて厳しい現実です。

 また、中学校年齢で学習機会を失う外国籍の子どもたちも多くいると思われます。小学校就学年齢と中学校就学年齢での不就学率の違い(中学校年齢での不就学率が、小学校年齢の不就学率よりも七%多い)や、日本語指導が必要な外国籍の生徒の数(生徒数一七一人を単純に三学年で割ると一学年あたり五七人)と実際の今年の卒業者数四六人との違いなどから、滋賀県では進路選択以前に中学校卒業すらも難しくなっているのではないか、という状況も推測できます。

 いずれにしても外国籍の子どもたちの教育環境を抜本的に改善するためには、子どもたちの就学状況、登校頻度、進路状況などの実態を正しく把握し、問題点があればその原因を探り、課題を整理し、課題解決のための道筋を考えるという基本に立ち返ることが不可欠です。

 

今できることは何か?

 しかしながら、子どもたちの貴重な時間は着実に過ぎ去っていきます。実態把握などと並行し、今できることをすすめていくことが重要なのは言うまでもありません。

 外国籍の子どもたちへの公的な学習支援に関しては、これまで幾つかの試みが行われてきました。滋賀県では加配教員の配置と非常勤講師の派遣(平成五年度~)や、『架け橋(学校連絡文書の翻訳集)』の発行(平成九年)、平成一七年度からは「地域が抱える教育課題に対応した指導者養成推進事業」として、日本語指導にあたる加配教員や講師へのポルトガル語・スペイン語入門講座、非常勤講師の指導補助を行う学生指導助手の派遣、外国人児童生徒教育実践交流会が行われ、今年度からは「外国人児童生徒ほっとサポート事業」(母語を介したコミュニケーションや学習、学校生活への支援)や、「不就学外国人児童生徒支援事業」として、就学実態の調査が始められています。

また、各市町では小学校入学時における就学案内が行われ、市町単独で教育相談員や日本語指導員などを配置したり、休暇期間中に学習支援を行ったりしている場合もあります。

しかしながら、これらの施策がどれほどの効果を上げてきたのかということは必ずしも検証されてはいません。例えば、日本語指導にあたる非常勤講師については言葉の問題から子どもや保護者とコミュニケーションをとることが難しい、一方、日系人等が通訳をしながら学習支援を行う場合では、教科書に書いていることが自分自身にも難しくて教えにくい、などといった声が聞かれます。

また外国籍の子どもたちにとって、週数時間の日本語指導以外の時間が学校生活の大半を占めているのですが、授業内容が分からない、宿題を出されても質問の意味が分からない、といった深刻な問題があります。例えばHe plays tennis.”の意味は理解できても、プリントに「上記の文を否定文にして書き改めよ」などと書かれていると質問内容が分からず回答できなくなってしまうのです。辞書を使って自分で文章の意味を調べようとしても、漢字が読めない、漢字の読みをどのように調べればいいのか分からない、ポルトガル語やスペイン語の辞書に載っていない単語(「平行四辺形」「寒冷地」「めしべ」などの学習用語)があまりにも多いといった問題もあります。これらの問題を軽減するためには、教科内容の理解を促進するための自主学習用教材や副教材の整備が必要不可欠なのですが、全国的にもこの作業はほとんどすすんでいません。

さらに、日本語基礎の力がないままに学校へ入る制度上の問題もあります。例えば、日本人の社員が海外転勤となった場合、ほとんどの企業では日本国内及び現地で短期集中的に社員への語学研修を行っていることと思います。現地の人とのコミュニケーションを円滑に行うためには当然のことです。しかしながら、外国籍の子どもが日本の学校へ入る場合には、まったく日本語が分からない状態でも、(原則として)その年齢に応じた当該学年クラスへ何の予備学習もなしに入ることとなります。

このことは受け入れ側である学校を困惑させるだけでなく、外国籍の子どもにとっても非常に大きな精神的負担となっています。それは、授業の理解が困難というだけではなく、クラスメートなどとのコミュニケーションがうまくとれないことによって、外国籍の子どもの孤立感、コンプレックスを高めることともなるためです。

そこで私たちは、外国籍の子どもたちの学習支援を目的としたセンター(以下、学習支援センター)づくりを提唱してきました。

学習支援センターの目的は、①学校生活を円滑に過ごすために必要とされる基本的な日本語習得の支援を行うこと【日本語初期指導】、②地域の人たちなどとも積極的に交流する中で子ども自身の孤独感をなくし、精神的に安定した状態で学習意欲を高めること【学習モチベーションの高揚】、③不就学状態をなくし、小中学校就学年齢にあるすべての子どもが学習機会を失うことのないようにすること【学習機会の提供】、④日本語学習・教科学習を手助けするノウハウに関する情報収集と必要とされる教材の開発【リソースセンター機能】、

⑤放課後や長期休暇期間中(夏休みなどの学習支援【放課後支援】です。

 本来は外国籍の子どもたちの生活圏内にこういったセンターが一つはあれば良いと思うのですが、とりあえずはモデル的に学習支援センターを一箇所でも創設し、(A)実態やニーズの調査、(B)事業企画案づくり、(C)事業の実施企画、(D)費用対効果の検証、(E)実施事業の再修正という一連の流れを経る必要性も感じています。

 もちろん、このような取り組みは学習支援センターだけで完結できるものではありません。学校や教育委員会、外国人登録などの行政窓口、保護者が勤める会社、NPOや地域住民など、様々な人たちや関係機関との連携が必要となってきます。また、学習支援センターの常設が求められることから、人件費や施設管理費等も必要となり、その財源をどのように確保するかという問題もあります。けれども、人づくりへの投資は必ず実を結ぶものです。この投資を怠れば、私たちの社会に大きな禍根を残すこととなるのではないでしょうか。

松井高 

06年8月号 国際結婚ってどんなもの?

国際結婚ってどんなもの?

人権研修などで講演を依頼されることが時々あるのですが、講演を終えた後によく尋ねられることが「奥さんとどこで知り合われたのですか?」という質問です。そこで今回は、少しプライベートな内容になりますが、国際結婚について我が家の様子をお話したいと思います。

少し前のことですが、上の子どもが小学校に入る前、私と上の子と二人、公園で遊んでいると、同じように小さい子どもさんを公園へ連れてきていた女性の方が私に声をかけてこられました。うちの子の容姿を見て「日本人」とちょっと違うと思われたからでしょうが、「国際結婚ですよね」と尋ねてこられました。「そうですけど」と答えると、「いいなあ、私も国際結婚したら良かった」と。一瞬にして私の目は点になってしまいました。

巷ではまだまだ、国際結婚を特別なこととして見る傾向があるようです。冒頭の質問に関しても、国の違う人が一緒になる、ということにドラマチックな出会いを期待しておられる方が多いのかもしれませんが、ほとんどの場合はごくありふれた出会いなのではないでしょうか。たまたま相手の人が外国籍の人だったというだけで。

コミュニケーションが難しかった頃

私と妻が出会ったのは、以前、一緒の職場で働いていた時期があったというだけのことです。ブラジルではポルトガル語を使うということすら知らなかった時期に好意を持ったのですから、その点は不思議な気もしますが、人を好きになるという感情はコミュニケーション以前のものなのでしょうね。

ところが、当時は妻も日本語がほとんど話せなかったのでうまく会話ができません。「誰と一緒に日本に来たの?」と尋ねたら、「おじいさん」と言うので、すごい、三世代に渡って来日したんだと思っていたら、実は「おじさん」だったということがずいぶん後になって分かりました。

「ようかいちに引越しする」と言うので、「うちの家から近くなるね」と言っていたら、実は「よっかいち」だったということが後で分かりました。こんな風に会話では誤解が誤解を呼ぶといった感じでした。

それと、うまく言葉で伝えられないもどかしさ。日本の文化に興味を持ってもらえるかと、最初のデートに選んだ場所は「京都国立博物館」だったのですが、これが大失敗。「これは何?」と聞かれて説明してもどうも伝わらない。土器を指差されて「これは、灰皿?」と尋ねられても、「まあ、そんなところ」と適当な返答しかできなくなったのを今でも覚えています。

辞書を引きもってしか会話ができないのですから、喫茶店などでの会話にも長時間を要しました。小さな喫茶店だと「ここは勉強をするところじゃない」などと怒られることもあり、嫌な思いをしたことも幾度かありました。

でもまあ、今から思えばそれもラッキーだったのかもしれません。お互いに日本語とポルトガル語を勉強しなければならない必然性があったわけですから。もし出会った頃に妻が日本語に長けていたり、私がポルトガル語に長けていたりしたら、一つの言語だけでの会話になっていたかもしれません。話しやすい言葉で話す方が時間も短縮できて合理的ですから。

さて、私の妻は日系三世のブラジル人であると同時に、フランス系三世のブラジル人でもあります。いろんな国の人たちの血が混ざるということはブラジルでは普通のことなのです。白人の血が流れているため、赤道にやや近いフォルタレーザという常夏の地域で生まれ育ったにも関わらず肌の色は白いままです。名まえはレア・ハナコ・カルダス・フジタと言います。レア・ハナコが名まえで、カルダス・フジタが姓です。ブラジルでは日本のように名まえ一つ、姓一つと決まっていませんから、このように長いフルネームは当たり前です。カルダスは母方の姓、フジタは父方の姓。日本では結婚すればどちらか一つの姓を選択しなくてはなりませんが、ブラジルではどちらか一つの姓を選んでも、夫婦別姓でも、二つの姓をくっつけて名乗ってもいいことになっていますから、その点は非常に自由度が高いわけです。

ちなみに、フジタのスペルは正しくはFujitaとなるべきなのですが、公証役場でFugitaと誤って登録されてしまったので、それ以来Fugitaのままです。こういうスペルミスは、ブラジルではしょっちゅうです。でもブラジルはラテン気質の国ですから、そんなことで怒る人は少ないのでしょう。

 

来日した当初のカルチャーショック

そんな妻が来日したのは一六歳の時。最初に住んだのは愛知県一宮市でした。ハイテクノロジーの先進国日本というイメージとは異なる暮らしに最初はとまどったといいます。

一番驚いたのは当時暮らしていたアパートのくみとり式トイレ。ブラジルでは見たことがなかったそうです。

それと食文化の違い。ブラジルでは料理を作る時、デザート以外に砂糖を使うことはありません。ブラジル料理の定番とも言える豆料理も、ブラジルでは塩で味付けするのに対し、日本では砂糖で甘く味付けします。お父さんとスーパーに出かけた時も、照り焼きの鶏を指差され「これはおいしそうに見えるけれど絶対買ったらあかんよ。甘くて気持ち悪い味だから」と教えられたといいます。

高野豆腐にもびっくりしたと言います。「日本人はスポンジを食べるのか?」と。

それからスライスされたお肉。「この向こう側が透き通って見えそうなお肉は何? 何のためにこんなお肉があるの?」なんて思ったそうです。

ブラジルにはスライスされたお肉はありません。お肉屋さんへ行っても、ステーキ用の肉を厚めに切るかやや薄めに切るか程度の違いです。私の知り合いに海外転勤でブラジルへ行った人がいますが、今一番ほしいものはお肉を薄くスライスできる機械だと言います。お肉屋さんでスライスするよう頼んでも「これ以上薄く切れない」と言われるので、すきやきに分厚いお肉を入れるしかないためだそうです。  

妻はイカだけはいまだに苦手ですが、生魚がダメというブラジル人も多くいます。以前私がブラジルで入ったお寿司屋さんでは、ネタの魚にすべて火が通してありました。これではお寿司じゃなくて、ご飯にのった焼き魚ですね。でも、生魚を食べる習慣がない国では無理もないのです。

調味料一つにしてもブラジルでは塩かコンソメ風のものぐらいしか使いませんから、味付けもずいぶん違います。

 

結婚後の家庭生活

 妻と付き合いだしてから約五年の歳月が流れ、結婚の日取りも決まりました。結婚前に突然妻がブラジルへ帰国し、再び日本に帰ってきたのはそれから一ヶ月もたった結婚式の数日前でしたが、それでも無事に結婚式を終えることができました。結婚の場所はカトリック教会です。ブラジルではカトリックの人はカトリックの人としか結婚できないそうですが、日本ではカトリックの人が少ないためでしょうか、カトリックでもない私との結婚も神父さんは受け入れてくださいました。

 婚姻届を市役所に出しましたが、妻は「外国人」なので戸籍に入るわけでもなく、役所でも「外国人登録原票」に記載されたままなので、日本人の「住民基本台帳」とは別扱いです。つまり、妻の名まえは独身時と何も変わりませんし、世帯全員の住民票を取ろうと思っても妻の名は出てこないのです(申請すれば備考欄には記載してもらえますが)。楽観的に考えれば、私たちは図らずとも夫婦別姓になったわけですが、何ともおかしな話です。

結婚後の家庭生活はいたって普通です。周りの人からは「奥さんが外国人だと文化の違いがあって大変じゃない?」などと尋ねられることもありますが、逆に「そちらではお連れ合いの方と大変なことはないんですか?」と尋ねると笑ってごまかされる方が多いところをみると、国際結婚だから大変とか、日本人同士だから理解し合えるとかそういうものではなさそうです。

むしろ、夫婦のつきあいは国際結婚の方が楽かもしれません。例えばけんかをした時に日本人同士であれば「ここまで言っているのに何で理解できないの?」といつまでも気持ちが収まらないかもしれませんが、私たちの場合は「文化が違うから仕方がない」と、お互いが自分自身に言い聞かせて心をなだめることができます。

食事については時々ブラジル料理を食べますが、だからと言ってそれが特別なことではなく、皆さんが時々酢豚やスパゲティーなどの外国料理を食べるのと同じような感じだと思います。それでも、今まで知らなかった食べ物に触れられるということはおもしろいことです。地域にあるブラジルショップなどで買った料理雑誌を見たり、料理を紹介するホームページのサイトを見たりすると世界が広がるような気がします。料理を作る時に多用するのは、圧力鍋とミキサー。半分程度の種類の料理は圧力鍋で調理しています。我が家には炊飯器がないので、ご飯を作る時も圧力鍋。シチューやスパゲティーなどでも圧力鍋を使えば短時間でできるので便利です。ミキサーはジュースを作ったり、食材を細かくしたりするのに使います。朝一番に生ジュースというのは、トロピカルな気分です。

結婚してから少し面倒だったのは妻の各種手続き関係でしょうか? 婚姻のために役所へ提出する書類を揃えたり、その後領事館へ婚姻を届けたり、またビザ(在留資格)更新の手続きも。妻は「短期滞在」で来日し、その後「定住者」資格へ切り替え、結婚後は「日本人の配偶者等」、現在は「永住者」へと変わりました。「永住者」になった今はビザの更新が不要となりましたが、それでも海外へ出かける時は事前に「再入国許可」を入国管理局で申請する必要がありますし、渡航国の観光ビザが必要かどうかということを旅行会社から情報を得られないので不便です(その都度、渡航国の在日領事館で問い合わせる必要があります)。

 

一つしか選べない国籍

私たちには二人の子どもがいますが、ブラジルの法律では父か母がブラジル国籍の場合は海外で生まれた場合でも、その子はブラジル国籍を得ることとなります。海外へ出る際には日本人のパスポートとブラジル人のパスポートと両方を持っていかなくてはならない場合もあるので少し注意が必要です。

ちなみに、日本の法律では二〇歳になるまでに国籍を一つ選ばなくてはならないことになっています。その意味では私たちの子どもも将来どちらかの国籍を選ばなくてはならないことになっているのですが、国籍を一つ選択しないといけないというのは問題があります。お父さんの国の国籍かお母さんの国の国籍かを選択しなさいというのは非常に酷な話です。ブラジルの法律では重国籍を認めているので、二〇歳の時に国籍を選択しなさいというのは(日本の法律だけで一方的に裁けるはずもなく)有名無実化しているのですが、法の建て前はいまだに残ったままです。これだけ国際結婚も増えているのだし、制度も国際化に即したものにしてほしいものです。

松井 高 

06年6月号 釜山への旅で思ったこと

釜山への旅で思ったこと

海外へ出かけることで日本の姿が見える時があります。今回は、家族で出かけた釜山(プサン)旅行を通して思ったことを書いてみます。

韓国文化に興味を持ち始めた頃

 昨年当初は、日本と韓国の緊張感が一気に高まりました。二〇〇五年三月一六日の島根県議会による「竹島の日」の制定に関する条例に対し、韓国内で激しい抗議行動が起こったためです。

 しかしちょうどその頃、マスコミは「韓流(はんりゅう)ブーム」についてもよく取り上げていました。このブームに一役買ったのは二〇〇四年四月から八月にかけてNHKで放送された『冬のソナタ』でしょう。

我が家は韓流ブームにかなり乗り遅れた感じでしたが、「まあ、これだけ世間で騒がれているのだから少しは見ておかないと」と、レンタルビデオ店から初めて『冬のソナタ』を借りてきたのが昨春のことでした。

 ドラマを見て意外だったのは、日本人と韓国人の感情表現が似ていること。例えば、恋人に自分の気持ちを伝えたいけれども自分の気持ちを素直に言葉にできない、相手のことを考えて自分から身をひいてしまう、自分の気持ちを押し殺そうとする、などといったことです。

ちなみに、ブラジルドラマでは、そういった表現はほとんどありません。お互いが主張しあって気持ちが離れたり、逆に激しいやりとりの後にお互いの結びつきが強くなったりというシーンが圧倒的に多いのです。

いずれにせよ、ドラマに共感できるということはそれだけ文化や価値観に共通した部分があるからだと思うのですが、「そういえば自分にも同じようなことがあった」という共感こそが、日本での韓国映画・ドラマのヒット要因ではないでしょうか。

釜山のまちを歩く

 私たちが釜山を訪れたのは今年の三月下旬。大阪港を午後四時に出発したフェリーは、翌日の午前一〇時に釜山港へ到着します。釜山は日本から非常に近い位置にあり、福岡から約二〇〇キロ、対馬からはわずか五〇キロという所に位置しています。そのため、航行のほとんどは瀬戸内海上で過ごすこととなります。

 大阪国際旅客ターミナルは地下鉄中央線終点のコスモスクエア駅近くにあるのですが、「ここが乗り場?」と不安になるほど簡素な造りです。銀行どころか、売店一つありません。乗船の際にも大きな荷物を抱えたまま長いタラップをひたすら上らなければならず、女性や重い荷物を持った人には一苦労です。一方、釜山市は観光客の呼び込みに積極的で、その力の入れ方は港の設備からもうかがえます。船から到着ロビーまでは段差がなく、施設内には両替可能な銀行の他、食堂、軽食店、コンビニ、土産店などもあります。到着出口正面には観光案内所があり、日本語のできるスタッフも常駐しています。

 港を出て徒歩五分くらいで地下鉄中央洞駅に着きます。地下鉄内の案内表示のほとんどは韓国語・中国語・英語の三ヶ国語で表記されていて便利です。また、釜山には地下鉄の路線が三本ありますが、一号線が黄色、二号線が緑色、三号線が茶色と色分けしてあるので、どの路線かが一目で分かるようになっています。それぞれの駅には三桁の番号がついており、一号線の駅は百番台、二号線の駅は二百番台、三号線の駅は三百番台です。例えば、中央洞駅は一一二番なのですが、次の釜山駅は一一三番、その次は一一四番という順になっています。車輌内で次の停車駅を示す電光掲示板にもこの番号が表示されるので、今どのあたりにいるのかと不安になることもありません。

 地下鉄の切符は自動券売機で購入できるのですが、券売機では一万ウォン札(約一二〇〇円)が使えず、千ウォン札(約一二〇円)か小銭しか使えません。そこで私は、ハナロカードというものを購入することにしました。ハナロカードはJRのICOCAカードと同様のICカードで、自動改札機にかざせばスッと通れるというものです。

 自動券売機の横あたりにハナロカード購入(金額追加)用の機械があり、タッチボタン式で英語表示に切り替えられるようになっています。ところがどうもうまくカードの購入ができません。こういう時、手助けしてくれる人がいるのは本当に助かります。どうやらハナロカードを購入する際も一万ウォン札が使えないようです。声をかけてくれたその人が他の通行人に頼んで千ウォン札に両替してくださいました。こんな親切は嬉しいものです。「カムサハムニダ(ありがとう)!」

 中央洞駅から約一五分、初日の宿泊地、西面(ソミョン)へ到着しました。私たちが泊まるホテルはロッテホテルのすぐ近くなので、ロッテホテルを目印にして同ホテル内のロビーを突っ切るのが近道です。ついでに、港の観光案内所で予約してもらった「シティーツアー」のバス乗り場について尋ねました。釜山では外国人旅行客へのサービス充実を図り、大型ホテルでは外国人スタッフの登用や、職員の語学研修を強化しています。そのため、ロッテホテルでも日本語だけで何不自由することはありません。フロントではデパートの受付係のように丁寧に応対してくださるので、私たちもその恩恵にあずからせていただきました。近くに母語で話せるインフォメーションセンターのような場所があるかと思うと、不思議とそれだけで心が落ち着くものです。

 荷物をホテルに預け、昼食に出かけました。とりあえずは本場のキムチチゲとビビンバを食べに行きます。西面のあたりは日本人客が多いためか、日本語のメニューを置いている食堂、レストランも多く、「日本人です」と伝えると日本語メニューを持ってきてくださいます。嬉しいことだと思いません?

 私たちが入ったのは熟成キムチ専門店でしたが、韓国には様々な種類のキムチがあります。白菜の他、大根、キュウリ、ネギなど、全部で二〇〇種類以上あるとも言われています。白菜キムチにしても、発酵させた酸味のあるキムチも現地では好まれているようです。

 お箸とスプーンは金属製。ご飯やスープにはスプーンを、おかずにはお箸を使います。韓国の食事は辛いものが多いという印象を持っている人が多いかもしれませんが、必ずしもそうではありません。プルコギ、のり巻き寿司、サムゲタン、餃子、魚介類の他、ビビンバや焼肉、韓定食の料理の多くも辛くはありません。これだと、日本から子ども連れの家族や辛いものが苦手な人も大丈夫そうです。

 午後からのバスツアーは、一人一万ウォンで主要な観光地をざっと見て回れるというものです。観光地でバスに乗り遅れたらどうしよう、という不安もありましたが、バスが到着する度に運転手さんが紙に大きな字で出発時刻を書いてくださったので助かりました。

 釜山は韓国でソウルに次いで人口が多く、約三七〇万人(韓国の総人口は約四六〇〇万人)がここで暮らしています。滋賀県の総人口の二・五倍以上です。交通渋滞が激しく、時間どおりにバスは進みませんが、それでも様々なまちの風景を見られるおもしろさがあります。

 夜は口の中でとろけるような牛と豚のカルビを食べました。日本では韓国と言えばカルビが有名ですが、現地の人たちはそれほどカルビを食べているわけではないそうです。また牛カルビ(ソカルビ)よりも豚カルビ(テジカルビ)の方が人気なようです。野菜の葉に副菜とお肉をのせ、くるんで食べるのが最高です。

 二日目の朝は有名チェーン店の野菜たっぷりトーストパンを食べました。Isaacというその店は、おもしろいことに日曜日が定休日。経営者がクリスチャンだからだそうです。意外なことに韓国ではキリスト教徒が多く、全人口の四分の一をも占めているのです。

 朝食後はバスに乗って子供大公園へ出かけました。韓国で初めて一般バスに乗るので不安でしたが、バス停を探していると、日本で暮らしていたという年輩の方が声をかけてくださり、どのバスに乗ればいいのか、どこで降りればいいのか、などを丁寧に教えてくださいました。

 釜山の市内バスは、前方から乗り、日本と同様、運転席横の料金入れにお札か小銭を入れ、おつりがある場合は運転手さんがおつりを出してくれます。けれども、千ウォン札(約一二〇円)か小銭しか使えません。私たちは地下鉄の駅で買ったハナロカードを使いました。このカードは、地下鉄だけではなくバスにも使えるという便利なものなのです。運転席の横にある磁気読み取り部分にカードをかざし、「オルン・トゥジャン・ハゴ・オリニ・ハンジャン(大人二枚と子ども一枚)」などと言うとその分の料金がカードから引かれます。

 子供大公園の遊園地で遊んだ後、子供会館(科学博物館と展望台)へ行きました。ここでは日本語はまったく通じませんでしたが、館内では受付におられた係の人がずっと一緒に同行して遊びの説明をしてくださり、展望台へ行きたいと言うと、その場所まで案内してくださいました。言葉は分からなくても、相手を気遣う気持ちは伝わるものです。

 その後二日目の宿泊地、東菜(トンネ)で虚心庁(ホシンチョン)という巨大な温泉に入り、夕食は韓定食にしました。韓国では、どんな料理にも幾つかの小皿料理がついてきます。数多くの小皿料理をつけるのは相手への礼儀だそうですが、韓定食ともなれば一五~三〇種類もの料理が次々と運ばれてきます。

 三日目の午前中はバスを使って太宗台(テジョンデ)という所へ行きました。バス停が分からず困っていると、年輩の方がわざわざバス停まで案内してくださいました。韓国では、道を尋ねると、自分には遠回りになっても分かりやすい場所まで一緒について来てくださることが多いので、本当に助かります。

 午後からは南浦洞(ナンポドン)の散策です。商店や屋台が立ち並ぶ国際市場や魚市場チャガルチは活気にあふれています。トッポッキやホットック、韓国風のり巻きを屋台で食べ、食堂でユムシ(ミミズを大きくしたようなもの?)も食べると、何となく現地の人たちに仲間入りしたような気分です。若い人たちに人気なのはファーストフード店。マクドナルド、ロッテリア、ケンタッキーなどが、まちのあちこちにあります。

 南浦洞あたりはごちゃごちゃとした所ですが、嬉しいのは公衆トイレがどこも非常にきれいなことです。公衆トイレといえども、デパート並のきれいな設備です。ただし、トイレの紙は有料のことも。

 西面で宿泊し、最終日はBEXCOというコンベンションセンターのコミックワールドというイベントを見に行きました。韓国の若い人たち、特に中学から高校生ぐらいの人たちにはマンガが大人気なようです。うちの子はケロロ軍曹のバッチを買い集めていました。この分野での日本の貢献は大きなものです。ホテルでテレビをつけた時も、必ずと言っていいほど、どこかのチャンネルでは日本のアニメを放映していました。

 音楽なども含めて、文化交流レベルでは日本と韓国はずいぶん近くなっているように感じました。その一方で韓国での日本語離れは急速に進んでおり、若い人たちには日本語はまず通じないと思って良さそうです。国と国との関係というのは不思議なものです。

 

おわりに

 靖国神社や「慰安婦」、竹島問題など日本と韓国との間には複雑な問題が多くありますが、だからと言って韓国人が日本人への強い敵対感情を持っているというわけではなさそうです。私たちが出会った人たちは皆、優しく接してくださり、むしろ日本人に対して非常に友好的な印象すら持ちました。自分がよく知らない世界については、私たちは不安感や違和感、拒否感、先入観を抱きがちです。けれども、相手のことを少しでも理解しようとする気持ち、尊重しようという気持ちがあれば、お互いのわだかまりは少しずつ軽減されていくのではないでしょうか。

訪れる人に少しでも気持ちよく過ごしてほしい、地元の人たちのそんな温かさを私たちは今回の釜山旅行で感じることができました。

けれども私たちの国は外国から来る人たちに対して温かく接することができているでしょうか? 今、日本の国会では「外国人」の指紋採取を復活させようとする法改正がすすめられています。

松井 高 

06年4月号 長浜と広島での幼児殺害事件を考える

長浜と広島での幼児殺害事件を考える

-国際化と私たちの人権意識-

 ここ最近、幼い子どもを巻き添えにした事件が多発しています。私も二児の親ですが、ご家族や身内の方の心中を察すると胸が痛むばかりです。

 そんな中、加害者が外国籍者であるという事件も起きました。一つは今年二月一七日に長浜市で二人の幼稚園児の命が失われた事件、もう一つは昨年一一月二二日に広島市で小学一年生の女児の命が失われた事件です。今回は、この二つの事件を通して私が感じたことを述べてみたいと思います。

一〇〇人のうち九八人は日本人による犯罪

 この事件のことを取り上げる前に、どうしても触れておかないといけない事柄があります。「外国人の犯罪」というカテゴリーでくくられている犯罪の動向についてです。このようなカテゴリーを作ること自体、人権上問題のあることですが、ここではとりあえず法務省が公表している白書統計の数値を追ってみたいと思います。

『平成一六年版・犯罪白書』( http://hakusyo1. moj.go.jp/ )によれば、平成一五年中の「一般刑法犯(刑法犯全体から交通関係業過を除いたもの)の検挙人員」は三七九、九一〇人ですが、そのうち「来日外国人による一般刑法犯の検挙人員」は八、七二五人で率にして全体の約二・三%です。すなわち一〇〇人の犯人が検挙されるとすればそのうち九八人は「日本人」であるということをまず初めに述べておきたいと思います。

一般刑法犯の検挙人員の比較

平成一二年

平成一五年

検挙人員総数

三〇九、六四九

三七九、九一〇

うち「来日外国人」

六、三二九

八、七二五

外国人登録者数の比較

平成一二年末

平成一五年末

一、六八六、四四四人

一、九一五、〇三〇人

ちなみに、外国人登録者数( http://www.moj.go. jp/PRESS/050617-1/050617-1-1.pdf )は急増しており、平成一二年末には一、六八六、四四四人であったのが、平成一五年末には一、九一五、〇三〇人へと約一・一四倍にもなっています。すなわち「外国人」全体の数が急増している以上、それにつれて犯罪者数が増加するのも特に不思議な現象ではないと言えます。別の見方をすれば、全体の人口がほぼ横ばいであるにもかかわらず犯罪が急増している私たち「日本人」の方が問題はさらに深刻だと言えるのではないでしょうか。

さて、次に検挙件数の推移を見てみると、ある特徴に気がつきます。「来日外国人による事件の主要罪名」のうち、「入管法違反」が非常に大きな割合を占めていることです。平成一五年の「来日外国人による一般刑法犯の検挙件数」は二七、二五八件ですが、「来日外国人による事件の主要罪名別検挙件数」のうち「入管法違反」は一〇、五五〇件をも占めています。平成一二年中の「入管法違反」は五、八六二件でしたから、三年で一・八倍にもなっています。つまり、「来日外国人」による犯罪数の増加は、「入管法違反」によって底上げされているという側面のあることが分かります。

入管法違反による検挙件数の比較

平成一二年

平成一五年

「来日外国人」

五、八六二

一〇、五五〇

 入管法違反はそもそも日本人には犯しようのない罪です。そして通常の刑法犯では被害者がいるわけですが、この犯罪には被害者がいません。

私の妻は日系人ですが、非日系人である妻の母は現在ブラジルで暮らしています。ところが自分の親を日本に呼び寄せたいと思っても、現在の法律では妻の母が日本で暮らすための在留資格(いわゆるビザ)がありません。そこで例えば、短期滞在(いわゆる観光ビザ)という在留資格で親を日本へ呼び寄せ、その期限が切れてしまうとすると、いわゆる「不法滞在」になってしまうわけです。法を犯すことを肯定はできませんが、法を適正なものにすれば犯罪者の数も減るということを私たちは理解しておく必要があると思います。

 数々の入管政策の矛盾を抱えながらも、「不法滞在者」への取り締まりは年々厳しくなってきています。「入管法違反」で検挙される「外国人」が急増すれば、「外国人犯罪」が数値の上で急増するのも当然の成り行きです。

現在の日本の治安状況を冷静に見れば、むしろ深刻なのは日本社会全体での犯罪の増加と検挙率の低さにあると言えます。

 上記に述べたことを踏まえた上で、表題の二つの事件について私なりの考えを述べてみたいと思います。

広島市での女児殺害について

 昨年一一月二二日、広島市に住む小学一年生の女児の命が失われました。同情の余地のない凶悪な犯罪であったことは間違いありません。しかし、報道のあり方について私自身は大きな疑問を抱きました。

 一つには、多くの新聞社やテレビ番組が「ペルー人」であることをことさら強調していたことです。「日系ペルー人を逮捕」「ペルー人被告に整理手続き」などの大見出しが連日のように並んでいました。もし皆さんが海外で暮らすことになり、「日本人が女児を殺害」「日本人を逮捕」「犯人は日本人」などと連日耳にすればどのように感じるか、周りの人たちがあなたのことをどのような目で見るようになるか想像してみてください。

 言うまでもなく、女児殺害は加害者が個人的に犯した罪であって、ペルー人コミュニティーが関与したことではありません。「ペルー人」であることを強調することは、日本社会の中でペルー人の住民に対する不信の念を増大させるばかりか、外国籍住民(「日本人」らしくない住民)全体への警戒感を煽ることにもつながりかねません。

 我が家もこの事件の余波を受けました。事件が起こった数日後、私が子どもを保育園へ迎えに行った時、「○○君(うちの子ども)のお母さん、外人なん?」と私に尋ねてくる子がいたのです(私の妻は日系及びフランス系三世のブラジル人です)。何年も一緒に同じ保育園に通っている子でもあったので、そんな言葉をその子から聞くとは思ってもみませんでした。今後うちの子がこのように周りから言われることもあるのかとショックを受けたことも確かですが、それよりも、無垢な子どもたちに人を色眼鏡で見るように仕向ける大人社会がとても悲しく思えました。

 上の子が初めて「外国人」という言葉を耳にしたのも保育園でした。「パパ、外国人って何?」という突然の質問に私は言葉を失いました。うちの上の子は容姿が「一般的な日本人」と少し異なっていますが、そのことで保育園の他の子から何か言われたことはそれまで一度もありませんでした。けれどもその日、学校教育の一環として実習に来ていた中学生から「外国人、外国人」と言われたそうです。うちの子が「何で」と聞き返すと、その子は「髪の毛の色が違うから外国人」と答えたといいます。

小さい子どもたちは、誰が「日本人」で誰が「外国人」という区別なしに日々過ごしています。一人ひとりは「○○くん」であり「○○ちゃん」なのです。そこには国籍も何も関係ありません。「日本人」とか「外国人」とかいう概念は私たち大人社会が勝手につくっているだけのことなのですが、その区別が偏見や差別を生み出しています。

「外国人犯罪」が取り上げられる度に、私の周りの外国籍の人たちはこう言っています。「ああ、これでまた外国人のイメージが悪くなる。」

「日本人」と「外国人」という概念を持ち出せば持ち出すほど、「日本人」と「外国人」との距離が遠ざかり、「外国人」が日本社会でますます疎外感を持つようになるような気がします。

長浜市での園児殺害について

 栃木県今市市での女児殺害(犯人未逮捕)など幼い子どもをねらった犯罪が続く中、またもや残忍な事件が発生しました。

 二月一七日、滋賀県長浜市で二人の幼稚園男女児が刃物で殺害された事件です。「殺すのは、周りにいる子なら誰でも良かった」というあまりにも身勝手な動機によって失われた二つの幼い命。子どもや家族のことを考えると、加害者が厳しい刑を受けることは当然のことです。

しかし今回の事件についても、あまりにも無神経な報道が目立ちました。広島の事件の時のように「中国人が~」という見出しこそ(少なくとも私は)見ませんでしたが、外国籍の人が関係する事件になると、なぜか大手の放送局や新聞社までもが三流大衆娯楽誌並みに人権感覚が薄れてしまうようです。例えば、郷里や生家まで訪ねて近隣・親族の声や朽ち果てた生家の映像や写真を堂々と流し、生い立ちを次々と明かしていくといったこと。中国の貧しい暮らしの中で育ったというようなネガティブなイメージがマスコミを通じて一方的に流されました。

また、日本語がうまくできなかったことがあたかも事件発端の直接的な動機であったかのような報道も見受けられました。ここで書く必要がないほど当たり前のことですが、日本語ができるかできないかは犯罪の動機になるわけがありません。あくまでも個人のモラルの問題であって、そのような同情論が出れば、被害者家族・関係者の思いが軽視されるばかりか、日本語でのコミュニケーションが困難な人たちすべてが犯罪予備軍のように見られる風潮をも助長しかねません。

さらに、広島の事件の時でもそうでしたが、一個人の特殊な事柄であるにも関わらず、あたかも中国人全体や外国籍の人たち全体の問題であるかのように一般化して語ろうとする傾向です。

今回のことで憤慨したのは某新聞社(大阪本社)の記事でした。二月一八日付の朝刊三面は『園児二人殺害』という大枠での記事の中に『日系外国人の入国条件を強化』という記事を入れ込むという、意図的としか思えない編集でした。これではまるで、「中国籍の人による犯罪も起きたことだし、日系人の入国も厳しくした方がいい」ということを主張しているかのようです。

一方、今回の事件の有無に関係なく、日本で暮らす外国籍の人たちが日々様々な課題に直面している現状に変わりはありません。

国際結婚の場合、同じ母語を話す同僚と一緒に就労する外国籍の人たちと比べ、友達や家族などとの関係も疎遠になりがちです。特にアジア系の女性は家事や育児を一手に引き受ける(押し付けられる)ことが多く、本人が社交的な性格でなかったり、同居する家族の理解が得られなかったりする場合には、外部の人たちとの接触もほとんど閉ざされ、問題を一人で抱え込んでしまう傾向があるように思います。

また滋賀県の場合、外国籍者の半数以上が南米国籍の人のため、南米国籍の人たち(特にブラジル人)に対しては不十分ながらも相談窓口や通訳態勢がとられているのですが、その他の外国籍の人たちに対してはほとんど何ら策が講じられていません。マイノリティーの中のマイノリティーの人にとっては、困りごとや悩みを抱えても、そのことを一緒に考えてもらえる場所すらなかなか見出せない実態もあるようです。

さらに、日本人と結婚したアジア系の女性に対してはまだまだ偏見が多いことも問題の一つとしてあります。(中国を含め)アジア系の人たちは、地域の人たちから「日本人と結婚できて良かったね」ということをしばしば言われるそうです。そこには、アジアの人たちは生活が苦しいからお金のために日本人と結婚している、といった偏見があります。仮に一部の人たちにそういったことがあったとしても、それを言えば相手がどのように感じるか、自分がもしそう言われたらどう感じるか、私たちの想像力はそこまで冷え切ってしまっているのでしょうか。

 外国籍の人たちが直面している生活問題を考える時、よく「外国人問題」という表現が使われます。けれども問題は外国籍の人個人にあるのではなく、日本社会の中にこそあるのだと私には思えてなりません。

松井 高 

06年2月号 ブラジルへ渡った日本人移民(後編)

ブラジルへ渡った日本人移民(後編)

『戦前にブラジルへ渡った日本人移民』というテーマで前回(『じんけん』〇五年一二月号)、戦前の移民について述べさせていただきました。今回はその後編です。

 日本人移民の夢は、二~三年ブラジルで働き、お金をためて本国へ帰るというものでした。しかし、厳しい現実の前にその夢はかなわず、ブラジル滞在は長期化していきます。それと同時に、日本へ帰った時に子どもたちが恥をかかないようにとの想いから日本人学校が次々と建設されていきました。滞在が長期化しつつも、日本人移民の心ははるか彼方の母国へと向けられていたのです。

ところが、日本人移民がピークを迎えていた一九三〇年代前半から、ブラジルではナショナリズムが激しく高まっていきます。

ブラジルでのナショナリズムの高まり

 一八九一年から一九三〇年までの四〇年間、ブラジルでは共和制が採られ、大統領が選挙によって選出されていました。そしてこの時期に、コーヒー産業が繁栄を極め、移民の受け入れが積極的に行われるようになりました。

しかし、一九三〇年の大統領選挙に敗れたゼツリオ・バルガスが軍部の力を借りて革命を勃発、臨時大統領の座を奪い取り、大統領の権限の大きいファッショ的な憲法を一九三四年に公布します。さらに、憲法に定めた大統領任期の四年が満了する直前の一九三七年、バルガスはクーデターを起こして上下院や地方の議会を解散、同時に独裁的な新憲法を公布してナショナリズムを強硬に進めていきます。

 また、戦乱に乗じて米国への輸出が伸び、同国との協調関係が強固なものとなると、真珠湾攻撃翌月の一九四二年一月、ブラジルは日本との国交を断絶してしまい、日系社会に衝撃が走ります。

 

ナショナリズムの中での日本人移民

 ブラジルが同化政策を強引に推し進めている頃、日本は軍国主義をひた走っていました。日本はブラジルでも教育勅語に則った皇国教育を行うよう命じ、日本の発展に貢献することを望んだ日系社会の大半もこれに盲目的に従いました。それはまた、遠く離れた地であっても日本人であり続けようとする移民の心の表れでもあったのです。

しかし、国家意識の統一を目指すバルガスは一九三八年に外国語学校をすべて閉鎖、一九四一年にはすべての外国語新聞の発行を禁止。一九四二年には日本人に対して、公の場における日本語使用や三人以上の集会を禁止。友人を訪ねる際にも許可証が必要とされ、資産も凍結されてしまいます。日系社会の主要な情報源は一九三五年から南米向けに行われていたラジオ放送だけでしたが、一九四二年にはラジオを聞くことも禁止、日本語の書籍や雑誌も押収、違反者は逮捕されるようになりました。

日本人に対する強制立ち退き命令や略奪など不条理なことが次々と起こる中、日本人は息を潜めて家の中に閉じこもり、日本が勝利して終戦を迎えることをひたすら待ち続けました。

そんな中、日本人移民に希望を与えていたのは海南島再移住論でした。「大東亜共栄圏の新秩序の建設と言う如き曠古の大事業に吾が祖国の行く可き道は定まった。……只吾々は日の丸の旗の下で充実せる精神と生活とを子孫のために残したいと言ふ切望を持つものであります。……吾々の東亜圏内再移住を忌避する理由は毫もないのであります。」(「聖州新報」一九四一年五月三一日)などという主張に、日系社会は海南島や満州などでの新しい暮らしの夢を描いていました。ラジオから流れる日本兵進軍の情報、真珠湾攻撃の戦果などに、日系社会が沸きに沸いたのは言うまでもありません。それは取りも直さず、自分たちが再移住の夢に近づくことでもあったのです。

また、戦況をただ静観しているだけではなく、一九四二年には日系社会の中で「天誅組」が組織され、「いやしくも敵性国家を利するが如き生産に従事するを許さず」として、絹や薄荷を生産する日本人に対し、焼き討ちなどの迫害をするようになりました。絹や薄荷は敵国によってパラシュートや爆薬に利用されるとの考えからでした。

混乱を極める戦後の日系社会

 一九四五年八月一五日、ポツダム宣言を受諾した日本は無条件降伏をします。しかしブラジル日系社会の間では、無条件降伏のニュースはアメリカの陰謀だ、というデマが当初から流れていました。

移民たちは日本へ帰ることだけを夢見ていました。故郷が破壊され、アメリカの占領下に置かれることを認めることは、今までの自分たちの苦労をすべて無駄にすることとなります。日本が負けるはずがない、祖国が勝利するに違いないという思いはやがて、日本が勝利したという確信へと変わっていきました。日本が勝利した今、天皇の船が自分たちを迎えに来て再移住の夢を叶えてくれる、ほとんどの人たちはそう信じていたのです。

ここに日本の勝利を唱える「勝ち組」と、日本の敗戦を客観的事実として認識する「認識派(負け組)」とが生まれ、日系社会は大きく二つに分裂することとなります。約九割を占めていたと言われる勝ち組は臣道連盟を結成し、一九四六年に入ってからは認識派に対する無差別テロを開始。過激化する勝ち組は認識派を「国賊」として次々と暗殺、家や店なども武装襲撃するようになります。四月一日のテロ事件では六〇〇人にもの勝ち組メンバーが一斉に検挙されますが、テロ事件はとどまるところを知らず暗殺はその後も続きました。次々と起こる日系社会でのテロ事件に、ブラジル当局も本格的な摘発に乗り出します。

勝ち組幹部の大量検挙や、新聞発行の復活などにより正確な情報が徐々に提供されていくと、一九五〇年頃にはテロ行為はようやく終息に向かっていきます。

しかし、移民たちの帰国願望が消えたわけではありませんでした。多くの人たちは天皇がいつか自分たちを迎えに来てくれると信じ、ある者たちは国連軍として朝鮮戦争に義勇軍として参加することを要望し、別の者たちは共産党として非合法活動をしているから日本へ国外追放するようブラジル当局に求めました。それらの試みが徒労に終わると、移民たちは失意のうちにも現実を受け入れざるを得なくなり、ブラジルでの永住傾向が徐々に強まっていきます。

戦後のブラジル国内事情

連合国との結びつきを深めるブラジルはドイツ、イタリア、日本に宣戦布告。しかしそのことはまた、関係諸国からブラジル議会の再開を求められる結果をも生み出しました。議会再開に対する内外からの圧力が高まる中、一九四五年にバルガスは辞任、一五年に渡った独裁政権が終焉し、大統領選が再開されます。

 その後一九五五年にはクビチェックが大統領に当選し、ブラジル中央高原の密林を切り開いての首都ブラジリア遷都、何千キロにも及ぶ全国の幹線道路建設、積極的な外資導入・外国企業の誘致による基幹工業の確立を目指しました。けれども、性急な政策は貧富の差を広げ、激しいインフレを引き起こします。

不安定な国内事情の中、一九六四年には軍部が革命を引き起こしてカステーロ政権を樹立。革命反対派の追放、すべての政党の解散、直接投票による大統領選挙を廃止。一九六六年に誕生したコスタ政権は左翼に対する徹底的弾圧を加え、立法府機能を停止、言論統制も始めました。(※軍政から民政へ移管するのは一九八五年)

 

戦後の日本とブラジル移住の再開

 戦争によって日本の国土は焦土と化し、農地も荒れ果てていました。そこへ満州などからの何百万人という引揚者が押し寄せ、終戦後の失業者数は一千万以上にも達します。食糧不足が深刻を極める中、一九五三年にブラジルへの移民が再開されました。

 日本政府は渡航費の貸付制度など移民促進の施策を行い、一九五一年には外務省に移民班を設置、一九五二年には神戸移住斡旋所を再開。一九五三年には移民課、一九五四年には外務省の管轄で財団法人日本海外協会連合会(海協連)を発足させます。戦前の送出機関は「募集、選考に慎重を欠き不適格な移民を渡航せしめ、わが移民政策の実行に少なからぬ不円滑を招いた」として公益法人である同連合会が設置されたのですが、募集要項と現地の生活がかけ離れることが続き、戦後の移民も辛酸をなめました。

 他方、東南アジアへの再移住論がはかない夢だったことを悟った戦前移民はブラジル社会との接点を積極的に模索するようになります。一九四七年には三四人もの市議会議員が当選、一九五〇年にはサンパウロ州議員が当選。その後軍政によって議員権が停止させられますが、永住傾向へと移り変わる移民の意識を裏打ちするかのように、日系人の多くが都市や都市近郊、またサンパウロ州以外の地へと移り住み、職種も洗濯業、食料・雑貨店、果樹栽培などへと広がっていきました。また、ブラジルの現地学校へ子どもたちを積極的に通わせるようになり、日系人学生の大学進学率は驚異的に伸長していきます。

 そのような中でブラジル社会の信望も徐々に獲得していきました。一九七八年に行われた移民七〇周年祭では、エルネスト・ガイゼル大統領が異例の長いメッセージを日系社会に発しています。

「わが国の統一性が堅固且つ安定していることは人種的文化的多様性とその祖先又は宗教が如何であってもブラジル人はすべて平等だという確信に基づくからであります。……日本移民とその子孫の活動は最初は農業に集中していましたが、今では各分野にみられるようになりました。ブラジルはその国民の間で差別を致しません。その系統が何であっても等しくブラジル人であります。我々を兄弟のように繋ぐものは、ブラジルに対する献身の精神であります。移住者は独特な伝統をもっていますが、これはすべてブラジル国家の形成に合流していきます。……すべてのブラジル人の平和と結合と相互理解こそブラジルの本当の国民性であります。この努力に対し我々の兄弟である日系人の協力は絶対に欠かせないものと思います。」

 異文化の中で暮らすことは移民にとって決して容易なことではありませんでした。異文化を受け入れることは、ブラジル社会にとっても大きな試練でした。しかし紆余曲折を経ながらもお互いの理解が進み、日系社会はブラジル社会にしっかりと根を下ろすこととなったのです。

終わりに

先日、神戸へ出かけた時に旧神戸移住センターを訪れました。この建物は一九二八年(昭和三年)、移住者のための無料宿泊施設、「国立神戸移民収容所」(一九三二年には「神戸移住教養所」へと改名)として幕開けました。現在、「神戸移住資料室」となっているのはこの建物の一階東側だけですが、四階まである館内全体が船内を模しており、近代風のらせん階段、複数の鉄管が通った天井、食堂、細長くまっすぐ伸びた廊下、細かく分かれた小部屋(当時の「収容室」)、古びた家具などに当時の面影が感じられます。館内の閲覧用写真集で、出港前の移住者たちの華やいだ様子や、おしゃれに仕立てた洋服での記念撮影などを見ると、ブラジルへ渡った人たちの気持ちの一端が垣間見えるようでした。

ブラジルへ移住する人たちは、この施設で研修や準備のために一週間から一〇日程度過ごした後、建物前から神戸港方面へと緩やかに下る鯉川筋(こいかわすじ)に沿って現在のメリケンパークのあたりから旅立って行ったそうです。

私の妻の祖父母は山口県で結婚、恐らく一九三〇年代の終わり頃にこの教養所を経てブラジルへ渡ったと思われます。残念ながら二人とも故人となってしまい、生前にお会いすることはできませんでしたが、私たちが移民のルーツをこのようにしてたどっていることをきっとどこかで喜んでおられることと思います。

 ブラジルへの移民の歴史がごく一部の人たちによってしか語られていない日本とは対照的に、地球の反対側ブラジルでは二〇〇五年七月二六日、連邦議会によって六月一八日を日本人移民の日とすることが法律で定められました。初の移民船笠戸丸がこの日サントス港に到着したこと、そしてブラジル社会の様々な分野における、今日までの日本人移民の貢献に敬意を払ってのことです。

移民の方たちのこれまでの苦労と貢献が今後の国際関係にも生かされることを願ってやみません。

松井 高 

05年12月号 戦前にブラジルへ渡った日本人移民

戦前にブラジルへ渡った日本人移民

 今年十月二日から五夜連続で、NHKドラマ『ハルとナツ』が放映されました。家族とともにブラジルへ渡ったハルが、一人で日本に残された妹ナツと七十年ぶりに再会するところからドラマは始まります。七十年前、当時家族は北海道で農業をしながら暮らしていました。しかし、凶作続きで飢え死にしなければならないところまで追い詰められ、一家は皆でブラジルへ働きに行くことを決意します。ブラジルで三年働いたらお金持ちになって日本へ帰ってこられるという話を信じて。ところが、出港直前に妹のナツはトラホーム(伝染性慢性結膜炎)と診断され、乗船不許可。「三年したらまた一緒にくらせるんだ、待ってる」というナツの言葉に後ろ髪を引かれる思いで家族は神戸港を離れていきます。一九三四年のことでした。

今回は、このドラマの時代背景を追って、戦前のブラジルへの移民について取り上げてみます。

地域や学校などで講演をしていますと、「なぜこれほど多くのブラジル人が日本に来ているのか?」と尋ねられることがあります。その答えは「なぜ二万人もの日本人がブラジルへ移住したのか?」と逆に問い直すことである程度答えることができます。

かつて、あるいは現在も数多くのブラジル人が家族と離れ離れになって来日を決意しています。とりわけ、泣き叫ぶ子を本国に置いて来日するのは、言葉では表現できないほどつらいものだと言います。けれども、そうせざるを得ない国内事情があり、それはかつての日本もそうだったのです。

黒人奴隷貿易から移民の受け入れへ

一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した後の一五〇〇年、ポルトガルの航海者ペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを発見します。

一五五〇年頃からサトウキビ栽培が軌道に乗ると、その働き手としてポルトガルと交易のあったアフリカから大量の黒人奴隷がブラジルへ連れて来られるようになりました。

それ以降、奴隷輸入禁止法が成立した一八五〇年までに約五〇〇~六〇〇万人もの奴隷がブラジルへ連行されたと考えられています。その後も国内奴隷貿易は続けられますが、時代の流れの中で一八八八年ブラジルはついに奴隷制度を廃止します。しかし、当時のブラジルはコーヒー産業が急速に拡大する時期にありました。

そこで、ファゼンデイロと呼ばれる大農園主は、奴隷の代替労働力としてコロノと呼ばれる契約労働者を雇い、一定本数のコーヒー樹を管理する代償としての年間一定の賃金と収穫量に応じた賃金とを支払うこととしました。

以降、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人など数多くの移民がブラジルの地を踏むこととなりますが、中でも移民数が最も多かったのはイタリアで、移民最盛期の一八九〇年から一八九九年の一〇年間の入移民総数約七三万人のうち、イタリア人の数は半数近い約三四万人にも達していました。しかし、一九〇二年頃のコーヒー不況でコロノ賃金の遅配・不払いがあいつぐと、イタリア政府はコロノ移民の送り出しを停止します。

深刻な労働力不足に陥ったコーヒー農園、その穴を埋める形で日本人のブラジル移住が始まります。日本とブラジル両国の間で移民斡旋の交渉がまとまり、第一回移民七九一人を乗せた笠戸丸(かさとまる)がブラジルへ着いたのは一九〇八年のことでした。

日本国内の貧困問題と戦前移民

一八六八年、明治新政府が誕生しますが、全人口の約七%を占めていた武士階級の失業、全人口の約八四%を占めていた農業分野での余剰労働力により、日本国内の貧困問題は深刻化していきました。

富国強兵を進める国家政策のもとで、農民は江戸時代よりも重い税負担に苦しみ、税(地租)を払えない人が後を絶たなかったため、一八八四年から一八八六年にかけては日本の全耕地の約七分の一が負債の抵当として流れるという状態でした。そのため多くの農民が職を求めて都市部へと流出することとなりましたが、当時その労働力を吸収するだけの力は都市部にはなかったため、海外への出稼ぎ需要は急速に高まっていきました。

個人で海外へ出稼ぎに行く日本人の数が増加の一途をたどる中で、明治政府はついにハワイ王国と移民協定を結び、一八八五年、政府の管理下でハワイに官約移民が送られます。その時の第一回募集は六〇〇人でしたが、申込者は約二万八千人にも達するほどでした。

海外への出稼ぎの増大のもとで一八九〇年代には移民会社が次々と誕生し、一九〇〇年代には六〇社近くにも増えていきます。

一八九四年から翌年にかけての日清戦争、一九〇四年から翌年にかけての日露戦争の勝利に国民は熱狂していましたが、庶民の生活は貧しく、アメリカへの日本人移民も一九〇七年には三万人以上にもなりました。ところが、アメリカやカナダでの排日運動の激化で一九〇八年には北米移民の道はほぼ閉ざされます。

そのような中、移民会社「皇国殖民会社」が一九〇八年に設立され、同年ブラジルへの移民を募集。一九〇〇年当初の小学校教員の初月給が一〇円から一三円という時代に、移民募集案内書には「移民は少なくとも一日に総収入壱円五拾銭以上壱円八拾銭を獲得することを得るなり而して一日の費用は一日付三拾銭にて足る故に差引純収入は壱円二拾銭以上壱円五拾銭なり」と宣伝されていたのです。家族三人で働けば一年で最低でも千円以上をためることができる計算でした。

一九〇八年四月二八日、七九一人の移民を乗せた笠戸丸が神戸を出港し、この時以来、日本からの主要移住先は北米からブラジルへと転換します。

一九一四年に勃発した第一次世界大戦にも日本は勝利し、近代化によってまちが華やかになっていく一方で、一九一八年には米価高騰による生活苦から総勢七〇万人にも及ぶ全国規模の米騒動が起こるなど、民衆の多くは深刻な生活難にあえいでいました。

一九一〇年代のブラジル移住者は約三万人。しかし、船旅は決して快適なものではなく、その衛生状態の悪さなどから一九一九年の「若狭丸」では脳脊髄膜炎で六〇名もの命が失われるといった状態でした。

一九二三年に発生した関東大震災は罹災者約三四〇万人、死者約一〇万人という大惨事を引き起こしました。政府は東京の復興のために莫大な予算を費やしますが、財政悪化は不景気を生み、生活苦から各地で対立や抗争が相次ぐ中、時代は昭和へと移ります。

一九二六年、昭和の幕開けとともに、震災後の資金繰りに行き詰まった金融機関が次々と破綻し、金融恐慌による不況が進行します。また一九二九年の世界恐慌が日本を直撃し、解雇や賃金カットなども相次ぎ、まちには失業者があふれ出します。

政府は軍縮、緊縮財政を断行しますが、軍部の暴走は一九三一年、満州事変を引き起こします。一方、一九三一年から一九三二年にかけて東北地方や北海道は大凶作に見舞われ、米価格も大暴落、欠食児童の続出、借金地獄、餓死寸前にまで追い込まれた農家が娘の身売りに走ることも相次ぎます。しかも、一九三四年にはさらに大きな凶作が農家を襲いました。

このような国内事情の中、ブラジルへの移住者は一九二〇年代に約五万人、続いて一九三〇年代には約十万人へとピークに達します。

ブラジル移住者の生活

一九〇八年六月一八日、笠戸丸はブラジルのサントスへ到着しました。移民収容所を経てそれぞれの農場へ向かうこととなりましたが、奴隷を使い慣れていたコーヒー農場主や監督たちは移民に対してもほとんど容赦しませんでした。

サンパウロ州では五月から九月までがコーヒーの収穫期です。農場に着いた人たちは早速、収穫の作業に担ぎ出されましたが、早朝から日が暮れるまでの重労働の日々。またその当時は農場主が賃金支払いに困るほどコーヒー価格が暴落し、移民会社の話と実際の賃金とは全く違ったものでした。移民会社は一人でも多くの移民を集めて手数料・斡旋料を得ようと、よく調査もせずに誇大宣伝をしていたのです。

ファゼンダと呼ばれる大農場の規模はとてつもなく大きく、近くのまちに出かけるのにも数十キロは離れています。そこで移民は農場にある売店から掛け売りで食料品や日用品を買うこととなりましたが、やっとのことで受け取った給料より売店での支払額の方が多く、どの家庭も売店への借金がかさんでいくばかりでした。

憤慨した日本人移民に対し、農場側は武器を備えて牽制しましたが、各農場から逃亡する日本人移民は後を絶たず、一年後の一九〇九年九月時点で当初配耕された六農場にとどまっていた者はわずか四〇人というありさまでした。

コーヒー価格が持ち直した一九一〇年には第二回移民、一九一二年には第三回・第四回移民などと続きましたが、一九一四年に第一次世界大戦が起こるとコーヒー価格は再び下落。コーヒー農園に失望した移民は、少しでも多い収入を得ようと各地を転々とし、ある者は職を求めて都市部へ行き、ある者は原生林などを切り開いて独立した農業を行おうとしたりしました。

移民の指導者が建設した植民地の最初のケースは平野植民地です。しかし稲作をしようと切り開いた湿地帯はマラリアの巣窟でもありました。蚊の発生を防ぐにはボウフラがわく水たまりを作らないことなのですが、稲作に適した土地は同時にマラリアが最も発生しやすい場所だったのです。

この地には二百数十家族が入植を希望しましたが、マラリアが猛威をふるい、わずか三ヶ月の間に八十数人が犠牲となってしまいます。平野二五周年史には次のように記されています。「(マラリアによる)死者を埋葬する人もなく、死後数日を放置せしものあり。或時は男手なく、女数人にて死骸を片附け、或は一人にて棺を送り出し、肉親を葬ったものあり。最愛の妻に死なれ、漬物桶や柳行李(やなぎこうり)に入れて彼の世に旅立たせるもかなりの数に上れり。其の窮状は目も当てられぬ有様にて、言語に絶し難し。」

マラリアで一命を取り留めた人たちも慢性化したマラリアによって発熱、貧血、疲労感などに苦しめられます。また、やっとのことで切り開いた土地もイナゴによって作物が一瞬にして食い尽くされたり、霜でコーヒー木が全滅したり、自立への道のりは非常に険しいものでした。

それでも各地で日本人会や農業協同組合などが生まれ、一九一六年には日本語新聞も発行され、日系社会の基盤は少しずつ固まっていきます。長期化するブラジル滞在と日本への帰国願望がますます募る中で、移民たちの関心は子どもたちの教育へと向かいます。日本へ帰った時に子どもが困らないようにと、日本人学校が次々と建設されていきます。いつか帰国できると信じていた移民たちにとって、ブラジルの学校に子どもを通わすことなど誰も考えていなかったのです。

日本では国策移民が開始され、ブラジルへの移民に対して、政府が旅費を全額負担するようになります。一九二七年には「海外移住組合法」公布、翌年には各都道府県に「海外移住組合」が設立。一九二八年には国立神戸移民収容所が開設され、移民が乗船するまでの宿泊費も無料となりました。さらに政府は一九三二年からは、ブラジル渡航の満一二歳以上の移民一人当たり支度金五〇円(子供は半額)の支給も始め、移民に金銭上の負担は全くなくなりました。

こうしてブラジル移民の数は一九三三年から一九三四年にピークを迎えますが、その後は一転急激に減少します。満州国での足場を確固たるものとしたい日本は、移民の流れをブラジルから満州へとシフトしていったためです。

後続移民が激減する中で孤立感を強めるブラジルでの日本人移民。貯えができた一部の移民は帰国を果たすことができましたが、大半の移民は経済的理由によってその願いをかなえることができませんでした。日本の目が「大東亜共栄圏」に向けられる中で、一九四一年に戦前のブラジル移民が終わりを告げ、同年ブラジルでは日本語新聞の発行が禁止。一九四二年には第二次世界大戦でアメリカ支持を決めたブラジルが日本との国交を断絶。公の場での日本語禁止、日本語教育も禁止され、「日本に棄てられた」との想いが移民たちに広がっていきました。

おわりに

一九九四年、初めて私がブラジルのサンパウロへ出かけた時、現地の日系人の方たちに本当にお世話になりました。サンパウロ郊外の農園を見せてもらったり、ごちそうになったり、宿泊場所を提供していただいたり、皆さんに温かく迎えていただきました。日系人がお金を出し合って作った高齢者や障害を持つ人の福祉施設も見学させていただきました。

中でも強く印象に残っているのはサンパウロ郊外にある高齢者入所施設「憩の園(いこいのその)」です。自然に恵まれた広大な土地に建てられた施設で、入居者一人ひとりの趣味活動などへの配慮なども行き届いていて、とても素晴らしい施設でした。けれども施設職員の方が言われた一言が今でもはっきりと私の頭に残っています。「私たちが唯一つらいのは、入所者の方たちの『日本に帰りたい』という願いにこたえてあげられないことです。」

松井 高 brazilnifty.com

【参考文献】

斉藤広志・中川文雄著『ラテンアメリカ現代史』山川出版

高橋幸春著『蒼氓の大地』講談社

藤崎康夫編著『日本人移民 ブラジル』日本図書センター

藤崎康夫著『ブラジルへ 日本人移民物語』草の根出版会

草柳大蔵監修『二〇世紀フォト ドキュメント』ぎょうせい

相賀徹夫編著『写真記録 昭和の歴史』小学館

『決定版 昭和史』毎日新聞社

大濱徹也監修『朝日新聞で読む二〇世紀』朝日新聞社

05年10月号 外国人児童生徒に関する指導指針について

外国人児童生徒に関する指導指針について

 二〇〇五年七月、滋賀県教育委員会から「外国人児童生徒に関する指導指針」が発表されました。「すべての児童生徒が国際化の進展に対応できる広い視野を持ち、互いを認め合い、ともに生きようとする資質や能力を育成する」ことを謳い、①国際理解教育の推進、②進路指導の充実、③教職員研修の充実、という内容について言及したことの意義は大きいと思います。
 しかしながら同指針を単なる理念として掲げるだけでは、外国籍の子どもたちの教育環境が何ら改善しないことは言うまでもありません。

そこで今回は、この指針の精神に基づいて、今後必要とされる具体的な施策について私見ながら述べてみたいと思います。

一 国際理解教育の推進について

「国に帰れ」とか「ブラジル人はバカや」とか、露骨な表現で投げかけられる言葉に当事者の子どもたちは深く傷ついています。また「クラスに友だちができない」、「みんなから変な目で見られている」など、学校生活について子どもたちから聞く話の多くは対人関係に関することです。

すべての児童生徒に「互いの人格を認め合い、励まし合って生きていく態度を育成」することは急務です。しかしながら国際理解教育を安易に行うことはかえって差別や偏見を助長することともなりかねません。

【必要とされる具体的施策】

①《子どもの年齢に適した教材の作成やメソッド(ワークショップなど)を開発する》

②《国際理解教育に充てる年間での最低時間数を学年別に定め、すべての子どもたちに学習機会を保障する》

③《互いを尊重し合い思いやりのある心を育むため、既存のカリキュラムの中でも積極的にグループ討議やグループでの共同学習(家族や地域などの協力も得る)等を取り入れ、自分と他者との違い、協働することの大切さを日常的に体験できるようにする》

外国籍の子どもたちからは「何のために学校に行っているか分からない」という声をよく耳にします。特に高学年になればなるほど「内容が分からず授業が終わるまで我慢しているだけ」という状態になるようです。総合的な学習支援と、子どもの心の安定、学習に対するモチベーションや学習意欲を高めるための取り組みが不可欠です。

【必要とされる具体的施策】

④《個々の児童生徒に応じた学習評価(絶対評価と相対評価)を行う》

⑤《個々の児童生徒に応じた短・中・長期的な学習目標の設定を行う》

⑥《個々の児童生徒に応じた学習教材(日本語学習用教材、教科書の副読本、自主ドリル等)を整備し、必要に応じて多言語化する》

⑦《保護者、児童生徒、クラス担任、日本語指導員、教育相談員、教育委員会、NPO等がお互いに協働できるような連絡会をつくり相互理解を図る》

初等教育年齢で来日したり、日本語以外の言語環境の中で育ったりした後に日本の小中学校に転入(入学)した場合には、クラスメート、担任などとのコミュニケーションに支障をきたしやすいだけではなく、外国籍の子ども自身にとっても相当大きな精神的ストレスとなります。その結果、子どもが本来持っていた積極性や社交性すらも失われてしまいがちで、中にはしばらく学校へ通っただけで、不登校となってしまうことがあります。

また、日常会話程度の日本語が身についた後も、授業で使われる学習言語は難解なこと、文章の読解は容易でないこと(例えばドリル学習をするにも質問の意味が分からないということがあります)、言語的環境が違うために家庭における両親の協力を得ることが難しいことなどから、継続的なサポート体制の整備が不可欠です。

【必要とされる具体的施策】

⑧《日本語の基礎が十分でないとりわけ初期には、生活に必要とされる最低限の日常会話力、国語教育の前提となる日本語の基礎、またNPOや地域の人たちとの協働を得ながら、心のよりどころとなれる対人関係を築き、学習のモチベーションや学習意欲を高められるような短期集中型の日本語学習を行う》

⑨《放課後学習や休暇期間(夏休みなど)中の学習についても、NPOや地域の人たちの協力を得ながら継続的に支援を行う》

 年齢が低ければ低いほど教科学習の理解がスムーズにいくと考えている関係者が多いようです。しかしながら、母語が定着していない年齢(通常は十歳前後まで)で日本の学校に入った場合には、その急激な言語環境の変化によって、抽象的な概念形成などよりも新たに直面する言語の習得にエネルギーが注がれるため、その後の教科学習の理解が困難になることが生じているようです。子どもの発達を保障する教育の役割から考えれば、母語学習について必要な措置を講じるのは公教育の責務です。

【必要とされる具体的施策】

⑩《母語理解のある人材等を活用し、母語による日本語学習の授業や、母語による教科学習の授業を一定時間数設け、母語を後退させることなく学校の授業内容についても理解が深められる学習支援を行う》

上記の学習支援は、一部の外国籍の子どもたちだけが受けられる特別なものであってはいけません。

【必要とされる具体的施策】

⑪《複数児童が在籍する学校への支援(日本語学習指導における非常勤講師の派遣など)という枠を撤廃し、外国籍の子どもすべてに学ぶ権利を保障する》

また、上記の学習支援におけるノウハウが蓄積され、より良い学習支援が行われるためには、それに関わる人材の身分保障(生活保障)も不可欠です。例えば、日本語指導員に関しては、週四~六時間という極めて短い労働時間、また他の非常勤講師と比べても時間当たりの賃金に格差が出ています。

【必要とされる具体的施策】

⑫《日本語指導員を含め、外国籍の子どもの教育にかかる人材の正当な身分保障を行う》

二 進路指導の充実について

 

 「高校に行きたかったが勉強ができないためにあきらめた」という声があるように、中学卒業後も勉強を続けたいという意志を持っていながら高校入試が大きな壁となっていることを考慮すれば、中学を卒業する数年前からの早期の進路指導を行い、進学を希望する子どもに対して、受検勉強に備えた学習目標設定などを行い、そのプロセスを保護者や教育関係者と共有することが欠かせません。

【必要とされる具体的施策】

 ⑬《進路ガイダンス等、進路決定に関する情報提供の場を公的に保障する》

⑭《進路決定に不可欠な情報を多言語化する》

 また、幼少期から日本語の基礎を培っている日本人と比べ、初等教育年齢で来日する子どものハンディは大きく、「取り出し授業」による教科学習時間の減少や、放課後学習の支援不足などによって、その後の教科学習の理解度にも差が生じがちです。そのため、本人に進学の意志があるにもかかわらず「入試の壁」によってその願いが断絶されてしまう状況が起こっています。進学したいという意志を持つ外国籍の子どもの学習意欲を最大限尊重しなければなりません。

【必要とされる具体的施策】

⑮《一般選抜・推薦選抜・特色選抜における外国人枠を設ける》

⑯《外国籍の子どもに対する一部学科試験の免除や、通常の学科試験に替わるものとしての日本語能力試験や母語による試験など、創意工夫によって、本人の進学希望の芽を摘まないための具体的な措置を図る》

 ⑰《これらの適用を受けるための条件(日本での滞在年数など)については、日本人とのハンディを十分に埋められるものとする》

三 教職員研修の充実について

 日常生活の大半を過ごすこととなる学校現場や教育関係者が、外国籍の子どもや家族への理解を深め、より良い教育を行うために最善を尽くすことは言うまでもありません。また、国際理解教育は決して一部の教職員が行うだけのものであってはいけません。

【必要とされる具体的施策】

 ⑱《教職員に対する研修プログラムを公的に位置付け、すべての教職員にその学習機会が保障されるよう、年間の最低研修時間数などを具体的に定める》

 ⑲《個々の教職員が問題を一人で抱え込まないようにするための相談、サポート体制の整備を図る》

 

四 その他

 他府県では、子どもの日本語能力等に応じて本来の学年よりも下の学年への編入を認めるなど柔軟な対応がとられています。しかし、滋賀県内の教育委員会では必ずしも十分な理解がされているとは言えず、子どもの状況も勘案せず子どもの貴重な学習機会が奪われた事例も起こっています。

【必要とされる具体的施策】

 ⑳《保護者や本人の意思などを十分に尊重した上で、年齢に応じた原学年に籍を置きつつも下の学年で学べるようにしたり、高校年齢に達している場合でも中学校に籍を置くことができるような配慮をしたり、また希望すればいつでも原学級に復帰できること、またこのことを関係機関に周知徹底、ならびに外国籍の子どもとその家族へ明示する》

 

 外国人登録のない子どもや、外国人登録に記載された居住地とは異なる場所に居住している子どもの就学事務について、県内市町教育委員会での対応が異なるようです。外国籍の子どもの家庭には様々な事情があり、原則どおりに手続きを行うことで子どもやその家族が不利益を被ることがあることを考慮し、家族の社会的状況に関わらず学習機会の保障を最優先することが不可欠です。

【必要とされる具体的施策】

 21《外国人登録がない子ども等の学校への受け入れにあたっては、その社会的状況を十分考慮し、住所地の確認が必要であれば公共料金の支払い請求書等でも可とするなど、柔軟な対応を行うこととする》

 

 外国籍の子どもたちには就学の義務がないため、学習機会に恵まれていない不就学の子どもたちの数が相当数にのぼると思われます。すべての子どもたちに教育を受ける権利を保障しなければなりません。

【必要とされる具体的施策】

22《外国籍の子どもについてもいずれかの公立学校に籍を置く(その際、外国人学校などに通学している場合には、公立学校の出席扱いとする)、もしくは教育委員会の責任において、定期的に子どもや家族と連絡をとりあい状況の把握に努める》

23《不就学となっている場合には、その原因を調査し、必要な措置をただちに講じる》

外国籍の子どもたちの現状を知るための客観的な指標も必要です。

【必要とされる具体的施策】

24《教育委員会は、国籍別に()就学年齢(高校年齢を含む)別の外国人登録者数、(B)就学年齢別の公立小中学校ならびに高等学校での在籍者数、(C)小中学校における年間出席日数の傾向、(D)中学校の卒業者数、(E)中学校卒業後の進路ならびにその内訳人数、についての情報をプライバシーにも配慮しながら公表する》

ブラジル人学校のような外国人学校等は、現在私塾と同様のものと位置付けられていますが、毎日朝から夕方まで子どもたちがその場で学習していることを考えれば塾のような学校の補完的役割を担った場所とは明らかに異なります。しかしながら、外国人学校等に通わせる場合には公的な財政支援が一切ない(一部各種学校としての認定を受けている学校もある)所が多く、そのため学費が非常に高く、親が失業した時などに子どもの通学も断念せざるをえない、といったことも生じており、不就学の一要因となっています。

【必要とされる具体的施策】

25《一定の要件を満たしたすべての外国人学校を「学校」として認可し、財政支援を行う》

26《日本語講師を外国人学校へも派遣できるような制度を新たに設け、子どもたちが日本社会との調和を保ちながら成長できるよう学習支援を行う》

27《健康診断や検診、性教育についての学習機会の提供など、保健衛生に関して公立学校と同様のサポートを行う》

上記に述べた様々な課題の解決に向け、専門的な窓口の創設は不可欠です。

【必要とされる具体的施策】

28《必要な情報や図書を収集・整理し、外国籍の子どもたちの教育実態を把握し、必要な関係機関や当事者等との連絡調整や相談を日常的に行うことができる専門機関を設置する》

松井 高

05年8月号 外国籍の子どもたちの今と未来のために

外国籍の子どもたちの今と未来のために

 「日本の学校に行くのが怖いと感じる。また周囲のブラジル人から、日本の学校に行くとひどい目にあうと聞いている。だから娘を学校には通わせていない。」

あるブラジル人のお父さんは、私たちにそう答えました。娘さんは一四歳。来日して一年近くどこの学校にも通うことなく、親が日中働きに出ている間、家で留守番を一人でしていると言います。

 その日(今年の五月七日)、私は松尾隆司(まつおたかし)さん(龍谷大学国際文化研究科・博士課程)が行っている『南米出身者を中心とする外国籍児童生徒の教育に関する実態調査』に随行し、長浜市でアンケート調査を行っていました。

 滋賀県は南米国籍の人たちが近畿の中では最も多く、例えばブラジル人の外国人登録者数(二〇〇三年末現在)だけでも大阪府四八〇八人、兵庫県三七七四人に対し、滋賀県では一〇九九五人と、その差は歴然としています。その中でも長浜市は南米国籍の人たちが特に集住している市で、県内の南米国籍者数の約四分の一にあたる三千人もの人たちがこの地で暮らしています。そのため長浜市で街頭調査をしようということになったのですが、目的とするアンケートを回収することは容易なことではありませんでした。

 この日は午後から長浜市内にあるカトリック教会でポルトガル語のミサがあるということを聞いていました。そこで私たちはまずその教会を訪ね、ミサの関係者や神父さんにお願いし、またミサの中でも参列者にアンケートへのご協力を呼びかけさせていただきましたが、調査対象を<六歳から一五歳の子どもと同居する世帯>としていたため、数件ほどしか回収できませんでした。そこで南米系の食材店やレストランを訪れ、そこに来た人たちにアンケートをとろうと試みましたが、それでもなかなか数が集まりません。仕方なく、道を歩いている南米らしき人たちに声をかけ、南米の人たちが多く住んでいるアパートやマンションがどこにあるかを尋ねながら、戸別訪問で調査を行う方法に切り替えました。

 しかし、アパートの郵便受けで南米の人が住んでいるかどうか確認しようと思っても、ほとんどの郵便受けには名まえが書いていません。やむにやまれず一軒ずつインターホンを押して廻ることとしました。場所によっては日本人や南米以外の人たちが玄関に出てこられましたが、その度に「すみません。押し間違えました」とか「こういう目的で戸別訪問をしているのでご迷惑をおかけしました」とか頭を下げながら調査を続けました。

 結局その日の午後一〇時近くまで、訪問件数は二五〇戸、そのうちアンケートを回収できたのは一〇数件にしか過ぎませんでしたが、わずかそれだけの中でも冒頭に挙げた不就学の子どもや、本当はブラジル人学校に入れたいけれども経済的な理由で日本の学校へ入れているといった話を聞くことができました。また、直接は今回の調査対象とはなりませんでしたが、本国に子どもを置いて両親だけが働きに来ているケースが非常に多かったことも印象的なことでした。

さて、私たちはこれまでも《外国籍の子どもの教育に関する実態調査》の必要性を主張してきました。外国籍の子どもの教育を取り巻く環境という枠で見れば、

    乳幼児

    これから学校へ入ろうとする子ども

    現在小中学校に通っている子ども

    外国人学校やその他の教育施設に通う子ども

    義務教育修了後の進路を考える子ども

    高等学校などに通っている子ども

に対する総合的な取り組みが必要なのはもちろんのことですが、実態把握の重要性を訴えるために私たちはとりわけ、義務教育年齢にありながら不就学となっている子どもたちの状況について(問題の氷山の一角として)様々な場で話題として取り上げてきました。しかし不就学の子どもたちに関する私たちの知識も非常に断片的なものであったため、(全国籍の)外国籍の子ども(「日本の学校」でいう「小一年生~中三年生」に該当する子ども)を対象に全戸の訪問調査などを行われた可児市の取り組みについて話を聞く機会を作りたいと以前から考えていました。

そこで、インターナショナル滋賀(私が代表を務めるもう一つのNPO団体)では今年六月四日に『外国籍の子どもの教育環境』というテーマで人権研修会を行い(当日は各種NPO会員や自治体職員、教職員、学生や一般からも含め参加者は約五〇名)、二〇〇一~三年度厚生労働省「多民族文化社会における母子の健康に関する研究」班として調査活動に携われ、現在も可児市教育委員会で外国人児童生徒コーディネーターをされている小島祥美(こじまよしみ)さんをお呼びする機会を持つこととしました。また、初田元明(はつだもとあき)さん(在日外国人の教育を考える会・滋賀 事務局)からは「滋賀の外国籍の子どもたちをとりまく状況」について、松尾隆司さんからは先に挙げた長浜市や米原市で行った調査についての結果報告をいただき、外国籍の子どもたちの現状理解をさらに深めるための機会ともしました。

前回の『じんけん』(〇五年六月号)でも述べましたように、就学年齢にある外国籍の子どもたちの不就学者は、滋賀県では小学年齢で約四人に一人、中学年齢では約三人に一人という状況です。他府県での不就学率はどうかと言いますと(外国人集住都市会議の二〇〇二年資料に基づく)、静岡県磐田市二二・六%、静岡県湖西市三四・三%、愛知県豊橋市一八・七%、愛知県豊田市九・一%、岐阜県大垣市四一・八%、岐阜県美濃加茂市二二・七%、三重県四日市市一六・九%、群馬県太田市三五・五%、長野県飯田市二三・六%などという状況です。可児市に関してはこの時の資料では不就学率を三六・〇%としていましたが、二〇〇三年度前期には四・二%、同年度後期には七・二%、二〇〇四年度には六・八%と報告しています。

不就学率に数十%もの開きがあるのは、そもそも「不就学」という定義が曖昧になっているためです。

 例えば、公立の小中学校に在籍する子ども以外を不就学とすれば、その不就学者の中には外国人学校に通う子どもたちも含まれますし、また、不就学とみなされている子どもたちの中には外国人登録(住所登録)だけは現在も残っているが他市町村へ引越しており登録地での居住実態がないということもあります(これは現在の外国人登録制度自体の問題でもあります)。本国(外国政府)からの認可を受けていない外国人学校や託児所のような所を含めて就学とみなすかどうかという問題もあります。またこれとは反対に、学校に籍を置いていても長期欠席となっていたり、日本語教室の時間だけしか出席しないなど週数日だけの登校となっていたりという場合があり、「学校に籍がある=就学している」とは必ずしも言えない状況もあります。すなわち、実態を唯一正しく把握できる方法が、①<対象者宅への戸別訪問調査>ならびに②<各小中学校への訪問調査>なのです。学校に来ていない子どもの実態については本人や本人家族に尋ねる必要がありますし、学校への登校頻度などについては学校で直接調べなければ客観的な事実が分かりにくいためです。

また戸別訪問調査については、中途半端な形で行うとあまり意味をなさない場合があります。例えば、対象者宅を訪問したが留守だったというケースを調査結果「不明」とした場合、この「不明」の中身を明らかにしなければ子どもの教育機会の保障にはつながりません。たとえ一〇〇人中九九人の実態が分かったとしても、残りの一人にとっては自分の人生がすべてなのですから。

 なぜ不就学になるのか? ということについては可児市が行った『外国人の子どもの教育環境に関する実態調査―二〇〇四年度調査報告書―』に、【子どもの声より、特徴的な意見を抜粋】として、次の内容が書かれていました。

        お父さんの仕事がなくなり、お金がなくなって、行けなくなってしまった。小学校は楽しかった。日本語の教室は楽しかったし、先生も優しかったから好きだった。

        お金を貯めてブラジルで勉強をするために、仕事をしなければならない。私が大学を卒業することは、お母さんの希望だし。

        お祖父ちゃんに会うために、一人でブラジルへ行った(二〇〇四年一~三月)。帰国後は日本の学校の勉強についていけなくなった。学校の先生は誰も自分のことを心配してくれないし、高校へ行く気がなくなってしまった。夏休みにアルバイトを始めて、そのままその仕事を続けています。前の日本語教室の先生は心配してくれたけど、今の先生達は何も言ってくれなかった。通訳の先生から電話があった時、「学校を辞めないの?」と言われた。

        勉強(漢字)が分からなかったから。